「訓練」という言葉を聞くと消火訓練や避難訓練を連想する人が多いと思うが、私が思い出すのは、日本人女性として初めて宇宙飛行士になった向井千秋さんが、スペースシャトルコロンビア号に搭乗するまでを、夫の向井万起男氏が書いた『君について行こう』1)の中での訓練の話である。
NASAの宇宙飛行士ほど訓練ばかりやっている人々はいない。1つの区切りとなってるL-45(Launch minus 45days、打ち上げ45日前)からは特に念入りに訓練が続くのであるが、その内容は無重力体験訓練、マスコミ対応訓練、宇宙服着脱訓練、科学実験シミュレーション、発射時緊急脱出訓練、着陸時脱出訓練等であり、ジェット機を使ったり、模擬訓練装置(シミュレーター)を使ったり、実物のスペースシャトルを使ったり、実験室を使ったりと、ありとあらゆる想定に基づき、様々な場を活用して実施される。
科学実験の訓練では、一つひとつの細かい手順を覚えるだけでなく、室内に隠されたグリーンカード(アメリカの永住権カードではない)を発見しつつ、そこに書かれた不測の事態を読み解きながら、緊急時対応も行う。
また、チャレンジャー号爆発事故の経験をふまえた、発射台にスペースシャトルが垂直に立ったままの時点で緊急事態が発生した場合を想定した訓練では、ヘルメットと宇宙服を着たまま、乗り込んでいる地上約40メートルの高さの場所から、地上に向かって伸びているロープにかごを引っかけ、そのかごの中に3、4人ずつ乗り込んで順次脱出しなければならない。
ロープの先は発射台の横下にある小さな丘に届いており、たどり着いた乗務員はすぐに丘の後ろに回り込んで、用意されている防空壕に飛び込む。爆発の規模が大きいなど、状況によってはさらに遠くに移動することになるが、その場合は近くに用意された戦車のような乗り物に乗って移動するので、その操縦訓練も必要だ。そして戦車が故障した場合はヘリコプターが助けに来ることになっているし、ヘリコプターが途中で墜落した場合は……と、そこまで? と思うくらい延々とシナリオが考えられている。
では、次の感染症流行に備え、我々は一体なにをどこまで想定した訓練をすればいいのだろうか。
宇宙に行くことは人類にとって前人未到の挑戦であったが、ある程度物理法則に基づいた計算式等で予測しながら経験を積み重ねた末、一定の能力を有する人間が冒険ではなく実行可能な計画として実施できるようになった。
他方、感染症による危機は限られた人々ではなく、社会全体に影響する問題であって、思惑、感情、文化、生活習慣、その時のトレンド等、様々な要素を加味しながら想定していかなければならない。
次に起こる感染症でも全人類未経験の事態になる可能性が高く、過去事例に囚われ過ぎてもいけないが、まったくやったことがないことは本当に起きた時にもできない、という事実も踏まえる必要がある。
まずは各自がCOVID-19で経験した身近な問題から、「どこ」で「なに」が起きるかを想定するところから始めてみてはどうだろうか。予測し、行動する力こそが、人間ならではの知恵であり、生きていく力なのだから。
【文献】
1)向井万起男:君について行こう. 講談社, 1995.
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000177728
関なおみ(東京都特別区保健所感染症対策課長、医師)[訓練][感染症危機管理]