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【識者の眼】「天然痘を歴史に変えた」森内浩幸

No.5235 (2024年08月24日発行) P.63

森内浩幸 (長崎大学医学部小児科主任教授)

登録日: 2024-08-07

最終更新日: 2024-08-07

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人類史上夥しい数の命を奪い、世界の歴史を変えてきた天然痘はもういない。天然痘を歴史に変えたのは何か? 言うまでもなく種痘〜史上最初のワクチンだ。

牛から人へ

英国の医師ジェンナーは、牛痘に罹った人は天然痘に罹らないと知り、これを天然痘の予防に使おうと18年に及ぶ研究を行った。そしてついに1796年、使用人の息子に牛痘を接種し、さらにその6週間後にはその子に天然痘を接種した! 今なら絶対に倫理委員会を通らない人体実験だったが、少年は天然痘に罹らず、大成功に終わった。

欧州から新大陸へ、そしてアジアへ

抵抗はあったものの、欧州では接種がしだいに広がって多くの命が救われたが、彼らが持ち込んだ新大陸で天然痘が野放しだったことは、前回(No.5230)述べた。罪滅ぼしのためか、バルミスを隊長とするスペイン王立慈善ワクチン遠征隊は新大陸に種痘を広めようと考えた。種痘は接種部位にできた膿を取り出して、それを次の人に植えつける。しかし冷凍庫も冷蔵庫もなかったその当時、帆船で新大陸まで運ぶのは不可能に思えた。そこで彼らが考えた過激な手段、それは生きたウイルスの運び屋として生きた子ども(孤児)を利用することだった(これも絶対今なら倫理委員会通らない!)。22人の孤児を船に乗せて順次接種し続け、新大陸到着時に最後の男子の腕に辛うじて残っていた一個の膿疱をもとに、数年間で南北米大陸を縦断して30万人以上に接種した。

この成功に気を良くした彼らは次にフィリピンそして中国まで進み、種痘を広めた。この遠征では孤児ではなく、様々な家庭からお金を払って子どもたちを借り受けたそうだ(これも今ならアウト?)。

そして日本へ

日本には、まずシーボルトが牛痘の種を持ってきたが、案の定、長い航海の間に失活していた。しかしシーボルトは、種痘の意義と接種方法を門人の楢林宗建らに教えた。それから四半世紀、モーニッケが牛痘の種を持参し出島に来たが、やはりウイルスは死んでいた。そのときモーニッケに宗建が進言した「膿そのものではなく瘡蓋を運ぶ」作戦が当たり、今度は生きた状態のウイルスが届いた。

この種痘は子どもの腕から腕に植え継がれながら、長崎から日本全国に広がった。宗建から受け継いだ京都の日野鼎哉は、福井の笠原良策にも分与した。良策が2mを超える積雪の中、京都から福井まで種痘を植え継ぐ小さな子どもたちと歩んだ苦労(これも今なら子ども虐待?)、そして藩医らの強い反発や中傷の中、私財を投げ打って種痘の普及に全身全霊で努めた姿が、吉村昭の小説『雪の花』に描かれている。

悪夢の病から歴史へ

ジェンナーの画期的な発想によるワクチンの開発と、バルミスや良策のような精力的かつ自己犠牲の精神によるワクチンの普及がその後も引き継がれ、1980年、天然痘の根絶宣言が出された。ワクチンによって、天然痘という恐るべき感染症が過去のもの─歴史に変わった瞬間だった。私たちはこれら先人らの知恵や熱意、そして危ない橋を渡ってくれた子どもたちにどんなに感謝しても感謝しきれない

森内浩幸(長崎大学医学部小児科主任教授)[感染症の歴史][天然痘(2)

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