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【Special Column】岩田健太郎「医学部受験生と、その親への「エール」」[日本医事新報特別企画 医学部進学ガイド「医学部への道2026」]

No.5259 (2025年02月08日発行)

岩田健太郎 (神戸大学医学研究科感染治療学分野教授)

登録日: 2025-02-18

最終更新日: 2025-02-17

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医学部人気の高まりを受け、医学部受験はここ15年で劇的に難化しました。
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タイトルの内容で原稿執筆を依頼された。思うところをこれから書くが、読者諸兄が期待するような内容ではない自覚は、まあまあある。その点、ご了解いただければ幸いです。

医学部進学は手段であり、目的ではない。医学部合格はスタートラインですらない。まずはこの点を十分に理解することが大切だ。医学部に合格した途端にバーン・アウトして、学習・研鑽を怠ってしまう事例が珍しくないからだ。

手段であるから、医学部自体はどの大学を選んでも構わない。全大学を網羅的に吟味した訳では無いが、僕が理解する限り、日本の大学の医学部教育レベルは概ね五十歩百歩である。この大学に入学すれば超優秀な医者になれるが、あの大学だと薮医になる、みたいな違いは生じない。

重要なのは卒業後の修行の場

もっと重要なのは大学卒業後の修行の場所だ。研修病院であれ、大学院であれ、それは一所懸命選んだ方が良い。だから、どの大学に進学するかを選ぶのは各人の自由である。実家から近い、学費が安い、住みたかった都市に位置している、彼女もそこに進学する。なんでもよい。もちろん、大学名にブランド価値を見出すのも個人の自由だ。好きなところを選べばよい。

僕の場合は、金をできるだけかけずに医学部に行きたかったので、地元島根の島根医科大学(当時、国立)に推薦入学した。親に迷惑をかけたくない、という立派な理由ではない。浮いた金で語学留学をして、英語力をつけたかったのである。2年生のときに1年休学して英国の大学で午前中は語学研修、午後は医学部の聴講生をしていた。ここで英語力を積み上げることで、後にアメリカや中国、アフリカなどで仕事をすることができたので、良い選択をしたと自分では思っている。

繰り返すが、日本の大学に限定すれば医学部間の質の違いはほとんどない。あなたの学力が優秀であれば、それに見合った大学に挑戦するのもよいだろうし、もし学力に不安があるなら、相応の医学部を受験するのが望ましいと僕は思う。自分の学力の届かない医学部に無理やり挑戦するのは戦略的だとは必ずしも思わない。もちろん、人生において失敗することも貴重な体験だから、受験に失敗して浪人することが必ずしも悪いことだとは思わない。だが、「この医学部なら入れるのに、あの医学部は難しい」と知りながら「あの医学部」を目指し続けるのは、上記の理由で合理的ではない。ある大学の医学部に入学して、仮面浪人して他の大学の医学部に入り直すとかは、時間とカネの無駄遣いとしか思えない。

昨今は便利な時代で、海外の医学部にも門戸が開かれている。ネットで探せばすぐに情報を入手できる。こうした医学部が「より入学しやすい大学」かどうかは、求められる能力の属性が異なるために一概にはいえない。少なくとも、一般的には相当な語学力(多くは英語力)が必要なのは間違いない。個人的には、もし僕が高校生の時にこのような選択肢が開示されていたのなら、きっとこちらを選択したであろう。僕は昔から「世界のどこに行っても役に立つプロ」になりたかったので。

「世界」を基準に考える。これは大切な態度だと思う。もちろん、医業はどこででも行われる。大都市でも離島でも、国内でも国外でも、医療が必要ないコミュニティは存在しない。どこで働いても構わないのだけれど、「そこでしか通用しない」ロジックと知識で、「そこでしか通用しない」医者になるのはよくないと僕は思う。タコツボ化された、「井の中の蛙」では、質の高い医療は提供できないからだ。田舎の離島であっても、世界のどこに行っても通用する、質の高い医療(それはハイテク医療とは限らない!)を提供すべきなのだ。それが患者さんに対する我々の責務である。

僕はアメリカの病院で5年間の研修生活を終えたのち、2003年に中国の北京に行った。ここの国際診療所でプライマリケアを提供したのだ。その経緯は長くなるのでここでは書かない。北京では主に在住する外国人の医療を提供していた。日本人には日本語で、その他の外国人はたいてい英語で診療していた。同僚に某欧米の家庭医がいた。この人物は有名な研修プログラムのチーフレジデントをしていたひとで、彼の地では「非常に優秀」と目されていた。しかし、北京では事あるごとに不平不満を言う人であった。中国には母国にあったこれがない、あれがないと言って憤慨していた。自分の出身国にあるリソースがないので、けしからんというわけだ。当時の中国は、今では想像しがたいが、まだ発展途上国で医療レベルも非常に低かったのだ。

僕のいう「質の高い医療」はこういうリソース・プアな場所でもちゃんとした医療が提供できることをいう。MRIや遺伝子検査ができないような、スペックの問題はあるだろう。しかし、患者の話に耳を傾け、その身体を丁寧に診察すれば、大抵の問題の核心はつかむことができる。多くの場合はそこで患者を治癒に導くことができる。場合によっては、「先進国」に患者を搬送する、メディカル・エバキュエーション(medical evacuation)を要することもあるが、それとて医者の判断力がもたらした判断だ。判断力は、世界のどこに行っても役に立つのだ。

判断能力を欠いたまま、スペックに頼った医療を提供していたら、大都市の大病院では通用するであろう。が、そのスペックを頼れない状況ではとたんに役立たずになってしまう。例えば、飛行機で移動中に病人が発生することがある。機内では血液検査も、画像検査もできないし、満足な医薬品も揃っていない。それでも判断力があればそこそこ適切な医療対応ができる。東南アジアやアフリカのリソースが足りないところでも、感染症診療や感染対策ができたのも、そういうトレーニングを受けることができたためだと思っている。

僕はアメリカで内科と感染症の専門医をとったが、これで「世界のどこに行っても通用する」かどうかについては、いささか不安であった。当時アメリカ医療は世界のスタンダードだと思われていたが、本当にそうであるか否かについて、僕には確信が持てなかった。日本の医学、アメリカの医学。さらにもう一点軸があれば、三角測量のごとく医療の質を吟味できる。そう考えた僕は、ロンドン大学通信制の修士課程で感染症を学ぶことにした。

イギリスの感染症の学び方はアメリカのそれとは随分違うものだった。例えば、履修項目に「マクロ経済学」があるのには驚いた。なんで感染症屋になるのに経済を学ぶのだ?僕はそのときそう思っていたが、後に経済の状況が保健行政や公衆衛生対策の遂行にとても重要なことを学んだ。「新型コロナ」のパンデミックのとき、「医療か経済か」という命題が生じたのは、その一例だ。

「トイレの構造や作り方」を学んだときも、「こんなこと勉強してなんの役に立つんだろう」と思っていたが、後にシエラレオネでエボラ出血熱対策をしたとき、これが思いの外役に立った。患者が激増して、テントによる突貫の病院を作ったのだが、そこで必要になったのが安全なトイレだ。当然、エボラ出血熱の患者も用を足す。便中には感染性が高い、致死的なウイルスがいる。これを漏出させることのない、安全なトイレが必要になったのだ。感染症の専門家は、バイキンと抗生物質だけ勉強していればいいわけではないのだ。

専門家に求められるのは「これができる」

国際社会で専門家に求められるのは、「お前に何ができるか」である。エボラの診療、エボラ対策の消毒薬の作成、感染対策プロトコルの策定、防護服着脱の訓練。現地ではいろんなことをやったが、そのたびに「お前は何ができる?」と訊かれ続け、「私はこれができる。あれはできない」と答え続けた。大事なのは職能である。これがジョブ型と呼ばれる労働の形である。国際社会はこうなっているのだ。

これが日本だと、必ず訊かれるのが「職能」ではなく「職名」である。いわく、お前は医者なのか、そうでないのか。教授なのか、そうでないのか。どこの大学出身で、どこの大学に勤めているのか。卒業年度は何年だ。こうして「業界」では、当該人物を下から崇め奉るべき存在か、上から目線でふんぞり返ってよい存在かを査定するのである。悪趣味だと僕は思うが、仮にそうでなかったとしても、このような旧時代の査定原則は世界では通用しない。

現在、医学部を卒業して美容外科医になりたい人が増えている。理由は「カネになる」からなのだが、短見だと思う。「今」流行の診療科に飛びつくのは、あたかも高値をつけている株券を買うようなものだ。ピークがすぎれば、株価は絶対に下る。買うならば安値の、「将来価値が高まるであろう」株である。価値判断の基準はしっかり持たねばならぬ。

案外、親の世代が古い価値判断の基準で子供の進路を誤らせたりしているので、ここは要注意ですよ。


岩田健太郎 (神戸大学医学研究科感染治療学分野教授)

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