明治8(1875)年6月、国は文部省医務局を内務省に移管して内務省衛生局と改め、長與專齋が局長に就任して陣容を強化した。危惧したわしは漢方医の有志とともに町医者を開業する清川玄道の居宅に集まって対策を練った。
清川玄道は豊後の岡藩(大分県竹田市)出身でわしより23歳若い好漢である。かつて右脚の多骨疽(骨髄炎)を患い、一時は外出不能となったが、数年間療養に専念して回復した。やがて采女橋(現在の新橋演舞場前)に『誠求堂』と名付ける居宅を兼ねた医院を開いた。以来、玄道はわしの片腕となって漢方医界の復興に尽力している。
その日、清川邸に集合した有志は玄道とわしを入れて6人の漢方医だった。玄道はやや痩けた頰をひきしめていった。
「先に国は西洋医学6科をもって医師免状の試験科目と定めましたが、漢方にも洋方6科に劣らぬ学術理論があります」
有志は玄道が開陳した漢方6科に耳をかたむけた。
「すなわち物理に対して究理尽性、化学には開物燮理、解剖生理に臓腑経絡、病理生理に衆病源機、薬剤には薬性体用、治療には脈病証治がそれぞれ対応します」。この試案を皆で検討した結果、これをもって漢方医の開業試験をおこなうよう、内務省に申し入れることにした。
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