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浅田宗伯(9)[連載小説「群星光芒」246]

No.4834 (2016年12月17日発行) P.68

篠田達明

登録日: 2016-12-18

最終更新日: 2016-12-08

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  • 脚気病院の設立準備が着々と進められていた明治11(1878)年5月14日の朝、全国民の耳目を驚かす大事件が勃発した。

    大久保利通内務卿が東京の紀尾井坂で数人の刺客に襲われ惨殺されたのだ。犯人は数人の不平士族だった。
    その日、わしが麹町の沢田邸を訪れると沢田侍講が深刻な顔つきで告げた。

    「主上(明治天皇)におかれては、此度の重大事で臣民に動揺が起こらぬよう国家の勢威と不動の方針を示すため全国を行幸なさる御宸慮でしたが……」

    そこで沢田侍講は声をひそめ、

    「実は去る5月30日に御座所を出御なさる前、侍医が玉趾の浮腫に気付き、脚気病の再発と診断して全国行幸は一時留保となりました。徳大寺侍従長も大いに憂慮され、右大臣岩倉具視卿と参議伊藤博文公にお諮りしたところ、府立脚気病院の建設を急げと命じられました。しかし本郷向ヶ丘に新築中の病院は年内に棟上げするのはむずかしいとのことで、急きょ神田に仮設の脚気病院を開くことになりました」

    そして明治11年7月10日、神田神保町の元英語学校跡に「東京府立漢洋脚気仮病院」が開設された。この府立病院は施療費を払えぬ者も診てもらえるとあって大勢の脚気患者がおしかけた。陸軍も協力して脚気を患った兵士を多数受診させた。新聞はこれを大きく報じたから世間も「漢洋脚気大相撲」と盛んに囃し立てた。

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