フェートン号事件によって屈辱をうけた佐賀藩は藩主鍋島斉直の嗣子直正の代になると破綻に瀕した藩財政の立直しに全力を傾けた。藩士に厳格な倹約令を発し、農民には均田制を布いて増産を命じた。商人には肥前焼の専売による殖産興業を奨励した。
養家の家禄を激減された相良知安は藩校『弘道館』に入学しても当初は勉学に気乗りがしなかった。
生徒は最初に『論語』『大学』『孟子』『中庸』の「四書」を頭に叩き込まれる。ついで『易経』『書経』『詩経』『春秋』『礼記』と「五経」を学ぶ。
落第すれば容赦なく家格を下げられるから生徒は必死だった。全員が一丸となって勉学に励む姿に知安もようやくやる気をおこした。とりわけ引き込まれたのは『易経』である。そこに書かれた易占は、単なる占いによる予言を越えていた。
「そもそも天地自然の姿を観るに、陽は陰を生じ、陰は陽を生じ、変化交替して熄むところ無し。易占も宇宙万物の陰陽の交わりによって生成し、消長し、変化する理に従い人界の生死、盛衰を卦として見定める」
つまり易占とは吉凶を判ずるのみでなく事物を開発してすべての仕事を成し遂げさせ、万物の生成変化を陰陽2元の法則に帰結させる奥深い哲理であると知安は考えた。
知安は幼い頃、父の長庵が竹を削って作った細長い棒の束をジャラジャラと鳴らし、そのあと長さ3寸ほどの方柱を6本並べてなにやらぶつぶつ呟いているのを見た。
おかしなことをしていると思ったが、『易経』を学んでからは、細棒の束を筮竹といい、6本の方柱は算木と称して占いの結果を示すものと知った。
父は易占が表す卦を日々の行動指針にしていたのだ。
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