伏見櫓は江戸城西ノ丸城壁の西南にそそり立つ。
京都の伏見城から移築した兵器庫と城壁を兼ねた多聞櫓である。
新政府軍を指揮する大村益次郎は早朝より伏見櫓に昇り、戦場の上野の方角をにらんでいた。時折、梅雨の小雨が櫓の格子窓に吹き込み、益次郎の軍服をぬらした。
西ノ丸殿舎には新政府の最高首脳で関東監察使・鎮将の三条実美と軍事参謀の東久世通禧、それに江戸鎮台輔の橋本実梁がそれぞれの従者に守られ、戦況の報告を受けたり、あるいは心配気に上野の方角に目を向けたりしていた。
新政府軍の参謀本部から軍防事務局判事を命ぜられた益次郎は、
「江戸市中で彰義隊と交戦するのは絶対に避けねばならぬ」
と強く主張した。
「西洋流儀の戦法が甚だしく忌むのは市街戦である。やみくもに市中に突入すれば敵味方が紛れ、なおかつ町民を殺傷する恐れがあり、きわめて危険である。また、諸藩の兵士は江戸の地理に不案内であるから、地元の彰義隊と交戦するのは著しく不利となる。せめて千住辺りで兵を挙げることにしたい」
いざ戦いが始まると益次郎は、諸藩兵の隊長を集めて厳命した。
「市中に戦火が広がらぬよう細心の注意を払え。戦場は上野近辺に限局して絶対に彰義隊を市内に入れてはならぬ」
益次郎の彰義隊討伐作戦は綿密をきわめた。
「まず上野寛永寺の黒門口と不忍池をへだてた本郷口を中心に各部隊を配備する」
「薩摩藩兵は御徒町より黒門口に向かい、広小路付近で彰義隊を迎え撃つ」
「鳥取藩兵は湯島天神脇の切通しから池之端仲町へ進む」
「熊本藩兵は不忍池の畔から攻撃する」
「長州藩兵は根津から団子坂を進軍して谷中の天王寺口を守る彰義隊の側面を突く。また、長州藩兵の分隊は会津藩兵に偽装して上野の山中に入り、敵の背後を突いて大混乱を起こさせる」
このような陽動作戦と謀略による攪乱戦術を縦横に駆使して敵を撤退させるが、それでも反撃が著しいならば、最新の洋式兵器を出動させ彰義隊の全滅をはかるのが最終目標だった。
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