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大村益次郎(5)[連載小説「群星光芒」274]

No.4863 (2017年07月08日発行) P.68

篠田達明

登録日: 2017-07-09

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  • 村田蔵六が主宰する蘭学塾の「鳩居堂」が麹町に移った安政4(1857)年9月、幕府は九段坂下に洋学の教育研究機関として「蕃書調所」を創設した。ペリーの来航を契機に洋学の必要性をひしひしと感じたのである。

    蕃書調所は洋書洋文の翻訳と研究、洋学教育、輸入洋書と翻訳書の検閲と出版、そして技術伝習と、多彩な仕事を担った。

    教授陣も箕作阮甫、杉田成卿といった著名な洋学者が選任された。

    「江戸一番の蘭学塾」と謳われた鳩居堂の村田蔵六にもすぐさま声がかかり、教授手伝として採用され、幕府から扶持米100石を受けた。

    蔵六は宇和島藩士としても100石を頂戴しており、兼務によって200石取りの身分となった。翌年には幕命により砲術や小銃の演習を行う「講武所」の助教授を兼ねたので、身辺にわかに忙しくなった。

    毎日未明に起きると行燈を灯して鳩居堂の塾生に講義をする。昼間は蕃書調所または講武所へ出勤する。夜は宇和島藩に頼まれた翻訳や加賀藩が宇和島藩主を介して依頼してきた兵書の翻訳などに没頭した。

    そして安政6(1859)年秋たけなわの頃、蔵六は西洋医学所の大槻俊斎所長と林 洞海副所長から、「人体解剖をしてもらえぬか」と頼まれた。それも「女体の性器を解剖してほしい」との要請である。

    「これについては市中の産科医から強い要望がある」
    と俊斎は言った。

    「頭部や眼、耳などとともに女体陰部の腑分けは至難の局所である。杉田玄白先生の『解体新書』や大槻玄沢先生の『重訂解体新書』が出版されて以来、人体解剖の翻訳書や図譜が多数刊行されてきたが、残念なことに女体性器の構造については大半が大雑把であまり参考にならぬ」

    「学殖非凡の貴殿に、ぜひとも女体を解剖して江戸市中の産科医にお示し願いたい」
    俊斎と洞海は代わる代わる頼んだ。

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