【Q】
阿部次郎の『三太郎の日記』で序文に出てくるAn–sich,Für–sichのわかりやすい説明を。An–sichは(それ)自体,つまり現在のありのままの自分の姿を表し,Für-sichは向自,つまり本来そうあるべき自分の向かうべき(理想の)姿のことをいうのか。(東京都 H)
【A】
「内省の記録」とされている『三太郎の日記』では,An–sichを「純粋で無垢な子どものような,あるがままの生命の純一」として,Für–sichを内省,観照する目の象徴として使用している
質問の語句は,阿部次郎(1883〜1959年)の著書『三太郎の日記』1)の冒頭,「断片」に出てくる用語である。
阿部次郎は,安倍能成,和辻哲郎らとともに大正期教養派と呼ばれ,日本における「教養」や教養主義の原型をつくった人物の一人である。“教養派”という名称を普及させ,日本における「教養」をめぐる議論の大枠を決めた論考『現代史への試み』2)において,唐木順三は,1917年頃を画期として,この時期に30歳前後で文筆活動を始めた上記の人物たちの世代を“教養派”と呼んでいる。それに対して,彼らの師の世代,森鷗外,夏目漱石,西田幾多郎ら明治維新前後に生まれ,幼時に四書五経の素読を受けた世代を“素読派”と呼ぶ。
「教養」を「修養」という概念と対置する唐木によれば,“教養派”は修養の世代(“素読派”)にはあった「型」や「行」という人間形成における身体的側面を無視し,代わりに文学と人生論についての古今東西にわたる豊富な読書が“教養派”にとって重要な人間形成的要素となった。
「教養」というと,現在では知識や物知りという意味で使われることが多いが,大正期においては名詞として使用されると同時に「教養する」という動詞としても使われていた。漢語である「教養」をドイツ語のBildungの訳語としたことが影響したのであろう。阿部自身「教養」を「Bildungという独逸語の訳語として」使用すると述べている。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』やトーマス・マンの『魔の山』などの小説はBildungsromanと呼ばれ,教養小説とも自己形成小説とも訳される。ドイツ語のBildungには,自己形成の動的な過程としてのBildungと,結果として得られた「教養」としてのBildungが同じ重みをもって意味されているのである。
また筒井清忠は,大正期の教養主義はそれ以前の修養主義の圏内から出発したものであり,どちらも努力や習得による人格の完成がめざされていたものであるとしている3)。
このように当時の「教養」という用語は,人格の完成をめざす動的な過程としての「自己形成」という意味を含み持ち,それゆえ動詞としても使用されていたのである。
『三太郎の日記』は,唐木が「教養派の一見本」として詳細に検討を加えているように,大正期教養主義の代表的書物に位置づけられる。1914(大正3)年に最初の出版がなされ,次に『三太郎の日記・第弍』,そして1918(大正7)年に『合本・三太郎の日記』として出版され,現在の形となった。主に阿部が明治末年頃より新聞雑誌などに発表したものをまとめたものであるが,合本の際に「日記的性質の本文とは別の」評論的な文章は取り除かれ,阿部自身の,自己形成としての「教養」の「内省の記録」の書として編集され,そのことにより教養主義を象徴する書物となった。阿部の,自己の心の内を真摯に見つめ,吐露する姿は,当時の青年たちに大きな影響を与えた。内省主義,人格主義が阿部の,そして教養主義のキーワードとなるのである。
さて,An–sichとFür–sichであるが,まず本文を見てみよう。
「俺は自らあることに満足ができなくなった。現にあることとあるを迫ることのいずれをも含んで,とにかく自らあることに満足ができなくなった。俺は飢えたる者のごとくに自ら知ることを求めるようになった。自らあることと自ら知ることと─〔ヘーゲルの言葉を借りていえば,An–sich(本然?)とFür–sich(自覚?)とである。ヘーゲルの意味と俺の意味と全然相蓋うていぬことはいうまでもない。先人の用語はただ俺に都合のよい内容を盛るための容れ物にすぎない〕─の対象は実に不思議なる宇宙の謎語である」。
阿部自身が述べているように,ヘーゲルからの引用である。An–sichは「即自」「それ自体において」,Für–sichは「対自」「自己に対して」といった訳語が当てられる。ヘーゲルにおいてはこれらが,定立,反定立,綜合という弁証法の三段階に対応する形になるが,阿部自身がヘーゲルとは異なる意味合いで使用すると述べているので,ここでは阿部自身の記述から見ていくことにする。
阿部は「自らあること」と「自ら知ること」をAn–sichとFür–sichに対置させている。そしてAn–sichを「純粋と集中と無意識」や「生命の純一」といった言葉によって語っている。ほかに「純一無雑」といった言葉もみられ,幼い子どもが持つような,無意識の純粋さやあるがままの存在様態を象徴する用語として使用している。近代人的な自意識とは無縁の,「いのち」のやむにやまれぬ「内部的衝動」に突き動かされていく,「いのち」そのものであるようなあり方である。一方でFür–sichは,『三太郎の日記』が「内省の記録」とされるように,内省,観照する目の象徴として使用されている。それを阿部は「鏡」の比喩でも語っている。そういった意味で,『三太郎の日記』というタイトルも重要な意味を持つ。書くということは自己を対象化することであり,また三太郎という人物を仮定することも,まさにFür–sichとなるからである。
阿部は三太郎として,An–sichとFür–sichの関係に苦悩する。素朴なAn–sichでは満足できずFür-sichに向かうのであるが,「自らあることは自ら知るとともに自らあることの内容を変更してくる」ことに気づく。そしてFür–sichがAn–sichに与える影響に悲哀の念を抱くのである。阿部はAn–sichを崇拝すると同時にFür–sichを磨き,それにより両者の統合を図ろうとする。その内省の果て,阿部は次のように記述している。「俺の心の海にはまだまだ俺の知らぬ怪物が潜んでいるらしい。俺のAn–sichはまだ本当にFür–sichになっていない」。
『三太郎の日記』とは,An–sichとFür–sichの関係をめぐる,明治・大正期の近代日本人が不可避的に抱えた問題に対する,苦闘の内省記録なのである。
1) 阿部次郎:新版 合本 三太郎の日記. 角川学芸出版, 2008.
2) 唐木順三:現代史への試み 喪失の時代. 中央公論新社, 2013.
3) 筒井清忠:日本型「教養」の運命. 岩波書店, 2009.