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江戸時代の旅装と武士の刀の覆い

No.4690 (2014年03月15日発行) P.68

原 淳一郎 (山形県立米沢女子短期大学准教授)

登録日: 2014-03-15

最終更新日: 2017-08-08

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【Q】

時代劇などで武士が旅に出るとき,(1)背中に斜めに背負う包み状のものは何か。またその中身は何か。(2)同じく佩用する刀の柄から鍔まで布のようなもので覆っているが,旅のときだけか。どのような形状でとっさのときはどのようにしたのか。(埼玉県 I)

【A】

振分け荷物という携行品を入れたもので,負担が少ないようにコンパクトにまとめられていた。刀の覆いには「柄袋」と「鞘覆い」がある

江戸時代の旅行者が提げているものは一般的に「振分け荷物」と言われる「旅行李」2つを紐で結び,肩から前後に分けてかつぐものである(図1)。



旅姿は,手に手甲,下半身には股引,上半身には合羽を羽織り,脛には脚絆を装着し,足には足袋と草鞋を履き,頭には菅笠というのが最もオーソドックスなものであった。また帯には「早道」という小銭入れや煙草入れなどをかけていた。薬を印籠に入れておくということもあった。

江戸時代は,その大半が徒歩での旅になるため,旅人は,コンパクトにまとめられるように工夫して,できるだけ荷物を少なくするようにしていた。1810(文化7)年に八隅蘆菴によって刊行された旅の手引き書『旅行用心集』にある「道中用心六十一ケ条」の第二条には,「懐にいれるもののほかは,できるだけ少なくするようにする」こと,とあって,「忘れものをしなくて良い」と述べている。

では2つの旅行李の中にはどのような物を入れていたのであろうか。

先の『旅行用心集』では,「道中所持すべき品の事」として,①矢立(筆記用具),②扇子,③糸針,④懐中鏡,⑤日記手帳,⑥櫛,⑦鬢付油,⑧提灯,⑨蠟燭,⑩火打道具,⑪懐中付木,⑫麻綱,⑬印板,⑭鉤を挙げている。

「矢立」は墨壺と筆がセットになったものである。「鬢付油」については,カミソリは宿屋で借りて剃れば良く,髪結いも所々にあるが,関所や城下などを通る場合に備えて前髪が乱れないようにするため持っておくものである。「懐中付木」は煙草を使用しない人でも持っていたほうが良く,旅籠屋の行灯が消えやすいため,不意に備えるために持っておくものである。「麻綱」は泊まる宿で物品をまとめておくのに便利であるためである。「印板」は,家に印鑑を残し,旅先より送る書状と引き合わせるのに使い,金銀為替などにもその印を用いるためである。江戸時代の旅は路銀をすべて持参してはあまりにも重すぎるため,高額な貨幣を宿場町で少額の貨幣に換金したり,為替で持って行き,貨幣にして引き出すというようなことをしていた。もちろん最低限度の荷物で旅に出るため,たとえば商用の荷物をあらかじめ指定した場所に送っておいたり,旅先で購入した土産物を故郷に送ったりして,少しでも荷物を軽くする工夫がなされていた。

『旅行用心集』で記されたもの以外にも,折りたたみ笠や,折りたたみの枕,折りたたみの蠟燭立て,小田原提灯など,いずれも折りたたんでコンパクトになるような道具が開発されていた。

一方,武士の旅姿は公的な旅か私用の旅か,あるいは身分によって大きく異なる。一般的には裾に黒い縁取りのついた「野袴」を穿き,背割り羽織(ぶっさき羽織),手甲,脚絆,菅笠を身につけ,大小の刀に柄袋をかぶせ,荷物は供の人足に持たせた。荷物を人に持たせているため,小さな網袋(打飼袋)を背中に肩から腰にかけて背負うだけで済んだ(図2)。袋の中身は庶民のそれと変わらない。刀に柄袋をかけるのは雨などから守るためである。背割り羽織は後ろに切れ目のあるものであり,これは刀を無駄なく差すためであった。割れていれば,羽織の後ろが刀によってまくり上げられないからである。また馬などに乗るときも,切れ目があったほうが体を自由に動かすことができて使い勝手が良かった。


これとは別に,「裁着袴」といって,脛の部分が体にぴったりするような形のものもあり,より自由が利く旅姿であった。

刀を覆うものには「柄袋」と「鞘覆い」があった。「柄袋」は柄と鍔にかぶせるものである。「鞘覆い」は刀剣類の刃を保護するための筒である鞘をさらに覆うものである。いずれも自家の家紋を入れたり,藩主の家紋をつける場合もあった。

これらは旅のためのものではなく,雨天や降雪の日の外出時に使用していた。そのため,旅のように途中での降雨が予想される場合にも,当然のことながら着用していくことになった。もちろん鞘に塗られている漆や柄の装飾を保護するという,美術的な意味合いも持っていた。用事先などで建物内に上がる場合には,それらも外した。

なお,幕末に水戸脱藩藩士が井伊大老を襲撃した「桜田門外の変」のとき,登城中の井伊家藩士は降雪であったため皆柄袋などを使用しており,そのため対応が遅れたとも言われている。

最後に,江戸時代の交通制度はあくまでも徳川幕府が幕府自らのために整備したものであって,できるだけ速やかに書状や情報が伝達され,公用で旅する人が速く移動できるようにしたものである。五街道をはじめとする諸街道の整備,宿場町の設置もそのためのものである。宿場町で人馬を雇う際にも,幕府に関わるきわめて重要な公的な役向きの場合には無賃,一般的な幕府の公的な用務での移動と,大名の参勤交代やその家中の移動には,一般よりもずっと安い御定賃銭,そのほかの通行は相対賃銭(人馬での駄賃稼ぎをする業者との話し合いによって決める)であった。

武士は藩などから渡された「駄賃帳」という帳面を携帯し,人馬の利用が宿場役人(問屋)によって記録さていた。これによって武士は不正をすることができなかった。

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