ポンペ師匠は軀幹魁偉、褐色の髪に赭ら顔、頭の形は阿修羅像に似た巨漢だった。
わしはオランダ医学を基礎からみっちり叩き込まれた。師匠は折に触れて「私が修めた西洋医術を日本人の幸せに少しでも役立てたい」と申され、「医師たる者は医の技をもって人を救うのが本務である」と説かれた。また「骨折にはギプス包帯をこのように巻くのだ」、「牛乳は不治の病を治し不老の寿を保ち身体健康、精神活発の元である」、「カルテの洋文字は鵞鳥の羽に墨をつけて書くがよい」などと細かな指導も怠りなかった。
安政5(1858)年は猛暑の夏で、わしは突然コレラ病にやられた。猛烈な下痢と嘔吐が繰り返し起こり、極度の脱水症状におちいった。わしは死線をさまよい、もはやお陀仏と覚悟したが、師匠の必死の手当と特効薬のキニーネの服用によって死の淵から蘇った。この時の師匠の献身と恩義を片時も忘れたことはない。その後師匠は「長崎に洋式病院を設けるべきである」と主張なさり、長崎奉行所と再三交渉を重ねてついに文久元(1861)年に『長崎養生所』と呼称するわが国初の本格的な西洋病院を設立された。
建物は東西に長く並行した2階建てで、屋上には日の丸の旗とオランダの三色旗がはためいた。
本館の1階に諸役室(受付事務)、監察官室、薬局、医師当直室、看護者室、煮炊室(厨房)、大浴場を設け、2階は手術室と図書室に器械室を設置した。
病棟は1部屋15床の病室が8室あり、1号室はコレラなどの熱病患者、2号室は皮膚病、3号室は術後患者、4号室は肺結核や気管支炎、心臓病などの内科系、5号室は創傷や手術などの外科系、6号室は梅毒、7号室は眼病、8号室は疥癬病の患者用とした。ほかに外人専用の病床を4床設け、全部で124床とした。
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