慶応2(1866)年6月、大阪はことに蒸し暑かった。長州征討大将軍として大阪城在陣中の徳川家茂公は暑気当たり(熱中症)をおこして病臥された。これに脚気衝心の徴候もくわわり、わしたち侍医は付きっ切りで診療に努めた。
その間、「長州とは戦火を交えず、平和裡に紛争を解決したかった」と家茂公がつぶやかれたのを耳にして、
「これぞ公の偽らざる本心なり」と痛ましく思った。
公の容態は日ましに深刻になり、7月18日夜から呼吸促迫、嘔吐、煩悶が始まった。窮した老中板倉伊賀守は、
「かくなるうえは起死回生をはかり、出島の蘭館医ボードインに往診を乞うほかあるまい」と言い出し、神戸港より急使を英国商船に乗せて長崎にさしむけた。
しかし、その間に家茂公は危篤状態におちいり、ついに慶応2年7月20日の夜、21歳の若さで薨去された。
療治が及ばなかったわれわれ侍医一同は痛恨の思いで臨終の場を去った。
その折、わしは板倉伊賀守に呼びとめられた。
「本日、はからずもボードインを乗せた軍艦が神戸港に着くはずじゃ」
伊賀守は声をひそめて言った。
「足下にはこれより隠密裏に神戸港に赴き、ボードインに下船せぬよう頼んでもらえぬか」
伊賀守の声はかすれていた。
「ボードインには将軍薨去の件を伏せるよう依頼して長崎へ帰還してもらうのだ」
そう言って金子の包みと上等な布帛を差し出した。
わしがボードインと再会すれば、「その後、江戸海軍医学校の計画はどうなったか?」と訊かれるかもしれぬ。だが、現今の情勢はそれどころではない。
わしが返事を渋ると伊賀守はいっそう声を低めて耳打ちした。
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