箱館五稜郭に立て籠もった榎本武揚は明治2(1869)年5月に降伏して旧幕臣と薩長軍との戦いはすべて終わった。
榎本は朝敵として獄に繋がれたが、薩摩藩の黒田清隆の強力な赦免運動によって釈放された。明治5(1872)年には海軍中将に引き立てられ、その2年後に政府の特命全権公使としてロシアとの樺太・千島交換条約を締結する功績をあげた。
のちに薩長政府がスネル商会から武器弾薬代金12万ドルを支払うよう請求された時、わしは交渉役の榎本に代わって旧知のスネルに会い4万ドルに値引きして貰った。榎本が大悦びしたのは言うまでもない。
明治6(1873)年、42歳で軍医総監に任じられたわしは軍医を養成する軍医学舎を創設した。2年後の3月、第1回の卒業生を送り出すに当たって生徒に申し渡した。
「軍医の卒業免状などと言うものは3文の値打ちもない。いざ朝敵と剣戟を交える場合、いかに頭が良くたって軍医は役立たない。肝っ玉が据わって居なくては却って邪魔になる。役立たぬ者に免状をやるのは無駄な話だから人物選考をして免状を渡すことにする」
たちまち生徒が騒ぎ出した。「総監は卒業間際になってとんでもないことを言う」、「校則にない話など承服できるものか」
陸軍上層部は面倒を避けようとわしを蟄居(自宅謹慎)にした。 罪状は「其方軍医生徒卒業スルニ当リ免状不渡ニ選考スル科ニ依リ謹慎10日ヲ被仰付ル」とあり、蟄居の間に卒業証書を手渡して事をおさめた。
大学東校のドイツ人教師ホフマン軍医とミュルレル軍医は外務省とドイツ政府との間で交わした契約により明治7(1874)年8月まで3年間教鞭をとった。しかし、後任のドイツ人教師の来日が遅れて年末になる見込みとなった。政府は後任が到着するまで両軍医を宮内省に属させようとした。
ミュルレルは宮内省に雇われたが、わしはホフマンに軍医学舎で講義をするよう頼んだ。彼は快く応じたので年末までの4カ月間月給300円で雇用契約を結んだ。
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