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高木兼寛(11)[連載小説「群星光芒」313]

No.4903 (2018年04月14日発行) P.68

篠田達明

登録日: 2018-04-14

最終更新日: 2018-04-10

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緒方正規帝大衛生学教授の脚気菌発見の報から1週間経った。

その日、神田の理科大学講義室では華々しい「脚気病毒発明大演説会」が開かれた。

高木兼寛もぜひ脚気菌なるものを実見しようと、部下たちと連れ立って会場に向かった。

当日は小雨にもかかわらず理科大学講義室に加藤弘之帝大綜理をはじめ1000人近い人々が集まった。

熱気のこもる会場には7台の顕微鏡と脚気菌の標本、脚気菌を注射されて四肢が麻痺したネズミが供覧された。

そのあと礼服に身を固めた緒方正規教授が演壇に立ち、菌の培養法や菌発見にいたるまでの経緯をくわしく説明して、満場の喝采を浴びた。

脚気菌の発表会よりひと月ほど前、兼寛は「大日本私立衛生会雑誌」に論文を発表していた。

そのまえがきに「麦は白米より蛋白質が多く脚気は白米食による蛋白質不足で発症する」と説き、その根拠として同一の遠洋航海実験にて白米兵食と麦飯兵食による比較検証した結果を挙げ、「蛋白質に富む麦飯兵食の場合に脚気病が一挙に減少することを確認した」と述べた。

この論文に対して大沢謙二帝大生理学教授が大日本私立衛生会総会で「麦飯の説」と題する講演を行い、兼寛の論証に水を差した。

「確かに麦は米より蛋白質の含有量が多い。しかし我々の麦と米の消化に関する実験によれば、麦の体内における消化吸収は米よりかなり劣る。故に麦の蛋白質吸収量は米よりずっと悪いと言わざるを得ない」

脚気の発生を「細菌感染」と断じる陸軍軍医本部次長の石黒忠悳は、「練習艦《筑波》の航海実験にて死亡者が出なかったのは単なる偶然の事象にすぎない」と、いっそう手きびしく麦飯兵食を批判した。

「それにもかかわらず天皇が海軍を好まれるのに乗じて、あたかも海軍は脚気撲滅に成功したかのごとく奏上したのは不敬のいたりである。もし海軍医務局が主張する白米有害論が公認されれば脚気の麦飯療法を奨める漢方医の漢方再興論が声高となり、洋方を専一とする政府の西洋医学採用方針まで勅命によって覆されかねない。また、白米食を麦飯食に改めたりすれば20万陸軍兵士の戦意喪失につながり、軍隊は一挙に弱体化して国家を危機におとしめる大因となろう。そのような事態は断じてあってはならない」

これを知った兼寛の部下たちは、「昔から論より証拠というのに、なぜ陸軍のお偉方は海軍の成果を無視するのでしょうか」と悔しがった。

《筑波》の軍医長を務めた青木忠橘は、「まさに頑迷固陋の石頭、度しがたい分らず屋です。こんなことが罷り通るようでは陸軍の将来が案じられます」とまで言い切った。

しかし、兼寛は陸軍軍医部と張り合うつもりなど毛頭ない。むしろ、陸軍軍医部とは手を取り合って脚気問題の解決をはかるべきである、と考えていた。

そのために海軍医務局が行った兵食改革による脚気の減少状況を論文に著して「大日本私立衛生会雑誌」に6回にわたって連載した。

しかし、これに対しても陸軍軍医部や帝大の研究者らから反論があいついだ。

中には、「海軍は兵食不良が脚気の原因と説くが、食物が不良なら身体が消耗して万病に罹り易いこととどのように区別するのか」。といった言い掛かりのような反論さえ現れて兼寛を落胆させた。

寒風が身に沁みる明治18(1885)年12月半ば、海軍医務局の副長室に青木忠橘軍医が笑顔をうかべて現れた。

「朗報です」。と彼はにこやかに告げた。

「例年、海軍全体の脚気患者は1100人から2000人ほど発病しておりましたが、本年12月初旬までの脚気発症統計はこれまでを大きく下まわり、わずか41人でした。このうち入院患者は25人、脚気による死亡者はゼロでした」

「そりゃ予想外の成績だったな」

兼寛は湧き上がる悦びを抑えて青木軍医に確かめた。

「ならば、今年我々は海軍の脚気死を根絶させたことになる」

「はい、兵食改革による輝かしい成果です。大沢教授の麦飯批判もこの事実の前には色褪せると思います」

青木軍医は一段と背筋を伸ばしてそう答えた。

暮もおしつまった12月28日、37歳の高木兼寛は海軍医務局の副長から医務局長に昇進した。同時に海軍軍医総監と海軍軍医本部長に任命された。

そのさい、海軍省の吏員から興味ある話をきいた。

「昨年の夏に陸軍大阪鎮台の堀内利国軍医が麦飯を兵食に採用して脚気予防の成果をあげたそうです」

上官命令が絶対の陸軍でよくぞ実行したものと感心した。そこで、堀内軍医のことをさらに調べてみた。

堀内利国は丹後出身で京都の新宮凉閣に蘭学を学び、長崎でポンペに師事した蘭方医だった。

その後、蘭医のボードインらとも親交を深め、明治3(1870)年に陸軍軍医の緒方惟準とともに大阪軍事病院の創設に尽力した。

明治17(1884)年には緒方惟準軍医の協力により大阪鎮台の兵員に米麦混食を試して脚気の発症を激減させた。

これに力を得た堀内軍医は翌年、兵舎の片隅にパンの焼竈を築造してパンと麦飯を兵食にした。しかし、陸軍軍医本部の石黒忠悳から大阪鎮台に横槍がはいった。

「パンと麦飯兵食は不許可である」と厳命したのだ。堀内と緒方は「現地の実情も調べぬ高飛車な命令だ」と反発したが、結局、兵食改善は中途半端で終わった。

もう1人、石黒に抗って麦飯兵食を敢行した気骨ある陸軍軍医がいた。

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