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高木兼寛(15)[連載小説「群星光芒」317]

No.4907 (2018年05月12日発行) P.68

篠田達明

登録日: 2018-05-12

最終更新日: 2018-05-08

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明治37(1904)年2月8日、日本海軍の主力艦隊が旅順港のロシア艦隊を包囲して日露戦争がはじまった。予備役の高木兼寛も海軍軍医本部に求められ海軍省へ度々足を運んだ。そこには陸海軍の戦況が逐次届いていた。それによると、森 林太郎は陸軍第2軍の軍医部長として満州に渡った。このとき第1師団の軍医部長を務める鶴田禎次郎が森部長に勧めた。

「まもなく脚気の夏が来る。兵士に麦飯を給与するのはどうかね」 

だが、森は目を逸らして応じなかった。 

同年6月、陸軍第3軍司令官の許に1000人余の海軍陸戦隊が同居した。鶴田軍医部長が案じたように第3軍の陸軍兵士に脚気患者が多発したが、麦飯給与の海軍陸戦隊に脚気は発症しなかった。それでも森部長は麦飯給与に同意しなかった。

7月になると第1師団に193名の脚気患者が発症した。歩兵第2聯隊第1大隊でも169名の脚気患者が発症して、50名が野戦病院に入院する事態となった。

鶴田軍医部長は陸軍軍医本部の小池正直野戦衛生長官に「至急麦飯給与ヲ願ヒタシ」と打電した。

だが小池長官は許可を与えなかった。

その後も陸軍の各師団に脚気で落伍する兵士が続出すると小池長官は、「各聯隊の軍医は軽々しく脚気の病名を下して我が野戦衛生部の成績を汚してはならない」と訓令を通達した。

しかし満州の日本陸軍に脚気が多発したことは欧州各国に知れ渡った。明治37年12月に東京で列国観戦将校団が結成され、日露の戦場にて軍陣衛生状況を視察することになった。兼寛にも「ぜひご参加願いたい」との要請があり、列国将校団とともに汽船《満州丸》に乗船して大連に向かった。

明治38(1905)年1月1日、旅順が陥落して日露戦争は終結した。列国将校団は戦後の戦場跡を熱心に見て回り、現地の野戦病院に入院していた傷病兵らの病状について、軍医らと質疑を交わした。

現地にはなお乃木希典将軍や伊地知幸介陸軍参謀長らも留まり、将校団と面談した。そのあと乃木将軍が憔悴しきった表情で、「あまりに多くの兵卒を失った……」と呟く姿が兼寛の目に焼き付いた。

帰国して兼寛が知ったのは、25万人の兵員を動員した陸軍の悲惨な事態だった。兵士の戦傷病死者は3万7000人にのぼり、このうち2万8000人が戦わずして脚気に斃れていた。

乃木将軍は罪滅ぼしをするかのように麹町区隼町の東京衛戍病院(陸軍病院)をたびたび訪れ、日露戦争で傷ついた兵士を見舞った。ことに手足を失った兵士にいたく同情を寄せ、彼らのために「乃木式義手」と名づける独特の補装具を開発した。南部式ピストルや三八式歩兵銃を考案した南部麒次郎陸軍少佐も製作に協力した。

この義手を横浜医療器具商会の店員が海軍医務局に持ち込んだので、兼寛も実際に手に取ってみた。長い鋏を付けた義手でカニがハサミを操るように物をつかむ。

「この義手は乃木閣下の肝煎りで3年後にドイツのドレスデンで開かれる『万国衛生大博覧会』に供覧される予定です」と店員は誇らしげに話した。よく工夫されてはいたが、実用に供するのは難しい、と兼寛は心中首をかしげた。

退役した兼寛が男爵位を授与されたのは明治38年3月3日、56歳のときだった。連日、祝賀会が開かれ、ご馳走攻めにあったせいかでっぷりと肥えた。

兼寛夫妻は3人の息子に恵まれた。長男の喜寛は明治7(1874)年に生まれ、長ずると父と同じロンドンのセント・トーマス病院医学校に5年間留学した。帰国後は兼寛が開設した共立東京病院の外科部長となり、慈恵会医学校の教授も務めていた。

明治14(1881)年生まれの次男兼二もセント・トーマス病院医学校に学んだあと志願兵として近衛歩兵連隊に入隊した。

3男の舜三は明治16(1883)年正月元旦に生まれた。英語が得意で東京高商(現・一橋大学)に学び、将来はアメリカの大学に留学するのだと張り切っていた。

明治39(1906)年1月、兼寛はアメリカのコロンビア大学から日露戦争の軍事衛生に関する招待講演を依頼され、26年ぶりに海外旅行に出かけた。

コロンビア大学では3回にわたって講演を行い、その後ニューヨーク、シカゴ、ボストンと各地を歴訪した。ワシントンではセオドア・ルーズベルト大統領と会見して新聞記者に囲まれた。

つづいて大西洋を渡り、パリとローマ、そしてドイツのストラスブルクを訪れた。

オーストリアのウィーンでは外遊中の次男兼二が笑顔で待っていた。兼二の案内でベルリンの各大学を視察してからフランクフルトやヴィースバーデンの観光を楽しみ、さらにオランダのハーグからベルギーのブリュッセルを訪れた。

兼二と別れたのちロンドンに往き、懐かしい母校セント・トーマス病院医学校の演壇に立って絶大な拍手を浴びた。イギリスを後にすると再びアメリカに渡り、ボストン大学で開催された米国医科大学総会に出席した。強行軍で体はヘトヘトだったが、好奇心が勝って疲れを感じず、その後カナダに往き、モントリオールとトロントの医科大学を歴訪した。最後にバンクーバーを経てアメリカから汽船《支那皇后号》に乗船して半年ぶりにわが家へ帰った。

3日3晩眠りこけて妻の富子を驚かせたその日、元部下の青木忠橘軍医が様子伺いにやってきた。青木もすでに海軍を退役して東京成医会病院で働いていた。

「海外旅行はいかがでしたか」

「うむ、帰ってきたとたん、どっと草臥れたよ」

「でも、お元気そうじゃないですか」

そんな会話のあと、兼寛は訊いた。

「ところで留守中、なにか変わったことはなかったかね」

「はい、近頃巷では麦飯で海軍の脚気を撲滅した兼寛さんのことを《麦飯男爵》と親愛の情をこめて呼んでいます」
と青木はうれしそうに告げた。

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