長年各地の陸軍聯隊で苦労した大西亀次郎軍医は白米食の害を痛感していたから、怯まず進言した。
「脚気の原因追究をするため陸軍部内に調査会を設けるのは如何ですか?」
森 林太郎局長も調査会で伝染病説を証明することを考えたのか、「じゃあ君、素案をつくってみたまえ」と命じた。
陸軍省は大西が作成し森が加筆訂正した脚気調査会案を国家的委員会にするよう政府に諮った。内務省と文部省からかなりしつこい横槍が入ったが、寺内正毅陸軍大臣は陸軍省の面子にかけても、とふんばり、ついに「臨時脚気病調査会」と名づける委員会の創設が本決まりとなった。
そして明治41(1908)年7月4日、発会式を兼ねた第1回の臨時脚気病調査会が陸軍大臣官邸で開かれた。
後日、海軍側委員として調査会に出席した岩崎周次郎軍医と矢部辰三郎軍医がそろって高木兼寛の私宅を訪れ、発会式の模様をくわしく話してくれた。
会長は森 林太郎陸軍医務局長、幹事は大西亀次郎医務局衛生課長が指名された。陸軍軍医の委員は都築甚之助ら少壮の研究者が6名選ばれた。東京帝大からは伝染病学の権威である宮本 叔ら3名と京都帝大医化学教授の荒木寅三郎が委員に就任した。伝染病研究所からも北島多一、柴山五郎作、志賀 潔の3名が委員に招かれ、北里柴三郎所長と青山胤道帝大医科大学校長が別格の臨時委員として就任した。
「このほか医史学の大家富士川 游と東京帝大医科を首席で卒業して日本橋浜町に岡田病院を設立した岡田栄吉院長が委員に加わり、海軍側のわれわれ2名とあわせて21名の委員が調査会に出席しました」
岩崎軍医がそこまで話したとき、矢部軍医が悲憤した声で口をはさみ、
「明らかにドイツ医学を崇拝する帝大と陸軍医務局の脚気伝染病説を重視した陣容です。しかも、我々海軍委員は末席に座らされました」と悔しそうに唇を曲げた。
「式の冒頭、寺内陸軍大臣が熱弁をふるわれました」
岩崎軍医は話をつづけた。
「本調査会は国が直接監督する機関として多額の予算がつぎこまれており、諸賢には軍隊に多発する脚気病の原因究明と治療法確立のため力をお貸し願いたいと主旨を述べられたあと、寺内大臣は奇異なことを申されました。余は20年来脚気を患い、漢方医の遠田澄庵の治療を受け麦飯を続けて治癒にいたった。この経験により日清戦争の際、運輸通信部長を務めていた余は軍隊に麦飯を給したのだが、このとき大本営野戦衛生長官を務めた石黒忠悳陸軍軍医監より、脚気に麦飯は効果がないのになぜ支給するのかと詰問され、ついに麦の供給を中止した。この席におられる森局長も石黒軍医監に同調してその場で余を詰問したことも思い出される。かくのごとく余は脚気に苦しみ、陸軍全体の苦悩をも知る立場にあるゆえ、1日も早く脚気の病源を解明する希望を抱いてこの会を設置したのである、と締めくくられました」
「ほほう、それは興味深い話だ。そのとき森会長はどんな顔をされたかね」
兼寛がそう訊くと岩崎軍医は、「森局長は表情も変えず、しれっとして開会の挨拶に立たれました」と答えた。
「森局長は冷静で容易に動じぬ勁い御仁なのだな」と察した兼寛は、肥えた首筋を搔きながら言った。「今を時めく陸軍大臣といえども科学的論拠がなければ麦飯を指示できぬとは、よほどドイツ学派が強固な壁を築いているようだ」
それには岩崎軍医もうなずき、
「森会長は本会では脚気の原因を明らかにするため医化学、微生物学、病理解剖学、臨床医学、流行病学の研究分野を主体に行うと言われ、なお帝大衛生学の緒方正規教授が脚気菌を発見され、また帝大病理学の三浦守治教授が青魚の中毒説を提唱されたことに鑑み、この方面においても十分調査・検討したい、と申されました」
そして矢部軍医が、「残念ながら脚気白米原因説を検証するとは申されませんでした」とつけくわえた。
それでも兼寛は世間が自分のことを麦飯男爵と呼んでいるように、脚気白米説が広まりだしたことを実感していた。
陸軍内部でも「麦飯で脚気を減らす実証をしようではないか」との機運が盛り上がっているらしい。だが、事実かどうかは判らない。それを確かめるには森陸軍軍医局長から直に訊くのがなによりである。
世間では陸軍の石黒・森と海軍の高木兼寛が脚気をめぐって大論争をしたかのように思われている。しかし、海軍在職中に13歳年下の森 林太郎陸軍軍医と談話を交わしたことはなく、ましてや学会で面と向かって脚気論争をしたことなどなかった。
――今は退職した身なので自由な立場で物が言える。いちど森局長に会って脚気の予防策など肚を割って話し合ってみよう。
そう考えた兼寛は明治42(1909)年2月初旬、陸軍省医務局に森局長との面会を申し込んでみた。すると思いがけず、2月17日の午後なら森局長は麹町区富士見町の陸軍軍医学校に居るので、そちらで会ってもよろしいと返事があった。履歴によると、森は明治26(1893)年7月から6年間第7代陸軍軍医学校長を務め、また明治39(1906)年8月から翌年12月まで第12代校長も務めたので、同校には何かと縁があるのだろうと察した。
その日、兼寛が陸軍軍医学校を訪れると事務員に応接所まで案内された。椅子に座っていた森は一瞬鋭い視線を向けたが、すぐに立ち上がって椅子を勧めた。森の洒落たヘアオイルの匂いがプンと鼻をついた。
互いに名刺を交わした後、「高木さんの英国留学は長かったのですか」と森は訊いた。「5年ほどでした」と答えると、「私もドイツ留学は5年でしてな」と気軽な口ぶりで応じた。
「2年前には半年かけて米国と欧州を回ってきました」と兼寛は言い、米国医科大学総会の模様などを話した。森は耳を傾けていたものの打ち解けた容子はなく、見えぬ柵でまわりを囲っているかのようだった。