天保7(1836)年の春、音信の途絶えていた岡 研介からごく短い報せがあった。
「このほど岩国藩医に召し抱えられた。しかし、なぜか近頃頭がふらついて気分が悪い。養生のため郷里の周防国平生村(山口県熊毛郡)へ帰省することにした」
信道はさっそく返書をしたためた。
「具合の悪いのはおぬしの頭脳が鋭敏すぎるせいではないか、ゆっくり休養をとって今度こそ江戸で再会しよう」
だが、それ以来、研介からはまったく音信が途絶えた。
天保8(1837)年の夏は信道が「一生に一度の大病」と称する瀕死の疫病を患った年である。
初発は頭が裂けんばかりの頭痛に襲われた。数日後に胃腸不快となって急性の下痢がはじまった。粘血の混じる激烈な水様便がとまらない。伊東玄朴は「赤痢じゃ」と診立てた。炎暑のさなか食事は喉を通らず、水ばかり飲んで骨と皮がくっつくほど痩せこけた。疲労困憊して「これが今生の別れ目か」と一時はあの世往きを覚悟したが、病臥して11日目に一旦症状はおさまった。だが、こんどは重症の鵞口瘡を患った。口腔はまるで糊をべっとりと塗ったかのよう。食事と薬餌は咽喉と食道の痛みで嚥下がままならない。9月初旬、病臥60日目にしてようやく床上げをした。
信道は妻粂との間に長男信友、長女牧、次女幾、次男亀也(夭折)、3男敬三と5人の子女をもうけた。しかし子沢山に加えて青地家の家族まで面倒をみる大所帯の生計はきわめて苦しかった。
医塾『日習堂』の近くに長州藩の下屋敷がある。信道は藩医の能美洞庵と親しかった。洞庵はいつも同僚の藩医たちに信道のことを絶賛した。
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