嘉永2(1849)年の秋が深まると、さらに各地からの吉報が佐賀藩邸に舞い込んだ。伊東玄朴は早速大槻俊斎に読んできかせた。
「京都の日野鼎哉殿は牛痘痂の植え継ぎに成功したあと10月16日に早くも京都新町に除痘館を開設されたそうじゃ。大坂『適塾』の緒方洪庵殿も日野塾から牛痘痂を分けてもらい、8人の子に牛痘接種をおこなって善感を得たという。この成果に洪庵殿は大坂に除痘館をもうける準備をはじめたそうじゃ」
そして嘉永2年11月初旬、肥前佐賀からやってきた佐賀藩医の島田南嶺が玄朴の許に待望の牛痘痂を持参した。
「まずはわしの娘にやってみよう」
玄朴が次女の腕に試したところ首尾は上々だった。つづいて藩士の子らに牛痘接種をおこない、ほぼ全員が発痘した。
玄朴は小躍りしてこの結果を藩主直正に伝えた。
「ならば、わが子貢姫(11歳)に施すがよい」
直正はただちに痘痂の接種を命じた。
11月11日、大勢の藩医が見守る中、玄朴は貢姫の両腕に合計12箇所の牛痘痂を接種した。数日後、種痘は見事に発痘して玄朴は直正侯より感状を賜った。
その後、ふたたび福井藩医の笠原良策から佐賀藩邸に報告があった。それによると、越前に戻った良策は11月25日に城下に除痘館をひらき、北陸諸藩の藩医にも牛痘痂を分配したとのことだった。
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