伊東玄朴はのけぞるようにおどろき、ひと息ついてから、「元堅殿の死因はなんだったのか?」と訊ねた。
「何でも小便が出なくなる病気だったときいております」と清右ヱ門は答えた。
「さては尿路に石でも詰まったか。ばってん、元堅もさぞや苦しかったろう」
仇敵が急に居なくなり、玄朴の胸に安堵の念がきざした。と同時に、ある種の寂寥感も覚えた。長年の宿敵ではあったが元堅がいたからこそ大槻俊斎とともにしゃかりきになって種痘をひろめてきた。というよりも、元堅の鼻を明かしてやろうと夢中になっていたのかもしれない。
頭上を覆っていた暗雲が晴れ、
「いよいよ時節到来じゃ」
と意気込んだ玄朴と俊斎は、江戸に種痘所を設ける相談をはじめた。
安政4(1857)年の初夏、下谷練塀小路の大槻俊斎の居宅に、伊東玄朴、戸塚静海、竹内玄同、林 洞海、箕作阮甫、三宅艮斎ら当代の大家と新進の蘭方医が種痘所設立の発起人として集まった。
席上、俊斎はいった。
「これまでは各自の医院で種痘をしていたが、今後はどこか1箇所に種痘所を設ける案はいかがであろう」
一同はこぞって賛意を表した。
「ついては神田松ヶ枝町のお玉ヶ池に勘定奉行川路聖謨様の拝領地がある」
と俊斎はいった。
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