座談会出席者:川崎富作(日赤医療センター部長)、木島 昂(東村山市・開業医)、小池麒一郎(東京・中野・開業医)、小林 登(東京大学教授)、松尾宣武(都立清瀬小児病院医長) ※肩書は当時
川崎 いまの小林先生の話でね、結局日本人というのは、日本の国全体が働き過ぎですよ。働くことは美徳だけれども、休むことは罪悪であるという考え方が、特にエリートあるいは指導者層に非常に強いんですね。だから、今日までやってこられたのも事実なんですが。だけれども、ここで、意識の転換をして、やはり時間をもっと大切にし、もっと余裕を持って、休みを持って、次のエネルギーを養うような、余裕のある指導というかな、そういう方向に日本の国も早く行ってほしいと思うんですね。女性ばっかりが休みをもらったって、亭主が一緒にもらわないと、何にもならないですからね。(笑い)
木島 ただね、日常診療において子どもを診ていましてね、いろいろ子どもの家庭とも親しくなる。そのうち塾でも何種類かの塾に学校から帰ったらやらせていることもわかってくる。子どもには無理だからいいかげんにやめなさい、遊ばせたらどうですかとわれわれが口をすっぱくして言っても、子どもの親ごさんは親ごさんとして、だけど先生、と真剣に切り返してきますよ。現実にいい学校へ入れなかったらどうするんですかと。社会に出てから隣りの子に負けたらどうするんですかという訴えが、親しければ親しいほど親ごさんから返ってくるわけですよ。まるで「うちの子どもの未来、生活を保証してくれますか?」(笑い)といわんばかりの勢いですね。なるほどこうした問題は日本の未来ということを考えたら大変なことなんだということは有識者は誰でも気軽く言ってますが、さて小児科医として、そういうことが社会に大きくプラスする力となるためには、一体どうすればいいんですか。
小林 むずかしいですね。(笑い)
木島 個々の診療では、皆さんそれを患者さんの家庭にはぶつけておられると思うんですよ。
小林 それに関して、学問として真剣に取り組むことも、私は一つあると思うんです。小児科学が。それはなぜかというと、そういうことが取り込められるぐらい、安易に言うと、学問の理論体系が、従来になく変わってきましたよね。たとえば従来の心理学の方法論で、心理の発達の問題なんかやっても、われわれはあまり臨床的に興味は持たないけれども、いまの新しい考え方、母子相互作用という考え方を見ていると、それ自体だって相当学問的情熱をかき立てるに十分なくらい、おもしろい論理ですよね。だから小児科学が、一つはそういう体系、そういう子どもの問題の中にも入っていく人がたくさん出てこなければいけないんじゃないかと。そして学問の上の業績なり成果が出てくると、今度は説得力を持ってますよね。その説得力を持ったものでキャンペーンしなければいけないということが、一つあると思うんですね。
第二は、これは九大の遠城寺(宗徳)先生などが、私は昔から偉い先生だと思うのは、教育学と小児科学は切っても切れない縁があるんですね。たとえばあるジャンルがあらゆるパラメーター、数学だとか、国語だとか、そういうもの全部ではかって、ある程度以上あるやつは優秀だと。教育学の論理で言うとまさにそうなんですね。だけども人間というのは、ある一つの能力だけをうーんとよくしても、やっぱり同じぐらい価値があるわけですよね、言うなれば。棟方志功なんて、ある意味でそうでしよう。あの人は、彫ることが全てでしょう。しかし、あの人だって、人間の持っている能力を版画というものを通して十二分に発揮した人間だと思うんですね。そういう人間も、やっぱり人間の生きていく社会の中では意味があるんだという立場を取ればいいんじゃないかと思う。
川崎 日本のお母さんたちが、結局小さい子どものうちから一生懸命勉強をさせて、いい人生の切符を持たせようとすることが、いろんな問題を起こしてくるわけです。わが国の教育が、明治から今日まで一貫しているのは、勉強のできる人をピックアップするという点ですよ。だから、そういう価値観にだけ教育が集中している。小学校から大学まで。
ある友人が言ってましたけれども、日本の国の教育というのは、運動にたとえれば100メートルだけを競争させる。昔は“十で天才、十五で才子、二十過ぎたらただの人”といってたじゃないですか。そのただの人になるちょっと前で、点数だけで人間の価値を決めちゃって、それから先は本当の競争をさせないというか、もう決まったなかでやらせる。あとは本当の意味の競争がないと。でも運動にはマラソンの能力のある者もいれば、砲丸投げのうまいのもいる、それこそ走り高跳びのうまいのもいて、いろいろ能力があるんだ。ところが日本の教育は大学受験に100メートル競争ばっかりさせて、そのとき、10秒フラットなのか11秒なのかというところで全部振り分けてしまって、それから先は、もうかつての栄光だけで最後まで行っちゃうと。マラソンの能力などは全く考慮されていないところに非常に大きな問題があるんじゃないかということを言っている友人があるんですよ。
小林 それは一つの真理でしょうね。
川崎 欧米先進国のように、大学に入るのは比較的楽だが、それから先が厳しい教育になってきて、社会へ出るとさらに厳しくなるというパターンがない。日本の国は、いわば代理戦争ね。子どもたちに代理で競争させておいて、大人には本当の競争がない。元来、大学に入るのは学の始まりのはずなのに、恰も終着駅の感がつよく、特に日本を支配する官僚社会には学歴しかない。
この間イギリスの日本を研究している学者―─東大にも留学したことがあるという人が新聞に載っていたのですけど、彼の話によると、どこでも学歴社会でそういう傾向があるけれども、イギリスには、官僚機構をオックスブリッジ(=オックスフォード大学とケンブリッジ大学)だけで占めるというような、そういうパターンはないと言うんですよ。だからいろんな大学出身者がなれる。オックスブリッジで良を取った者と、地方の大学で優を取った者ならば後者の方がより優先されるという、そういう価値観があると言うんですね。そこが日本と違うんだと。遊んでいるときの子どもは目が輝いてますよ。本来勉強は勤勉さだが、学問は遊び心ですからね。
小林 浅利慶太さんの話でおもしろいなと思ったのは、日本でどうにもならない学業不振児だったと。ところがイギリスへ行ったら、何か一つがよくできると、それだけでもう高く評価されるというんですね。
川崎 これは今まではよいとしてこれからの百年を考える場合に、よほど考え直さなきゃならん転換期に来ているんじゃないか。そこにはやはり官僚機構を、各大学出にも開放して、もっと受験というものを緩和させていく、という欧米の大人の価値観に近い形にさせない限り、子どもは幸福にならないし、真の民主主義社会、個々の人格と自由とを基盤とした個性を尊重する社会は育たないし、創造性豊かな能力も過去のようにつぶされてしまうと思いますよ。もっとも、その方が官僚支配には都合がよいとは思いますけれども。