宇田川塾の門人たちの学習意欲はきわめて旺盛だった。玄真は彼らの志と才能、そして情熱に後押しされるように教授に熱を入れた。日の目をみなかった『遠西医範』の草稿から解剖、生理、病理などの要点を簡明に解説した。
「わしの講義はもらさず帳面に書き付けておくように」。そう言いつけた玄真は門人たちの筆記帳を集めて各項目を簡素な漢文に整理した。これをさらにカタカナまじりの国文で全身諸器官の形状と構造と機能を手短に綴った。この草稿を3巻に分け、『和蘭内景医範提綱』と題して須原屋に持ちこんだ。「このような簡略本ならば」とこんどは上梓を引き受けてくれた。
『医範提綱』の中で玄真は独特の医学用語を案出した。例えば五臓六腑にないダイキリルについて、「萃(集まる)」と「月(肉)」を合わせて「骨のない肉の塊」とし、「膵」なる文字を創った。『解体新書』ではキリルを発音のまま記してあったが、キリルは膵液やリンパ液が月(肉)の中から泉のごとく湧き出る状態なので月と泉を組み合わせて「腺」という用語も造った。「リンパ腺」や「汗腺」などがその例である。「精神」という訳語も玄真の創案だった。かれは「脳髄ハ精神之府ナリ」と記述して精神が脳みそに宿ることを初めて伝えた。
文化2(1805)年、『和蘭内景医範提綱』が須原屋から出版されると蘭学界に大きな反響を呼んだ。「蘭方医学の入門書として極めて平易で読み易い」「文章は名文、説明は巧み、オランダ医書の真髄を簡明に伝えた稀にみる名著である」と世評は玄真の労作を絶賛した。
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