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小関三英(3)[連載小説「群星光芒」156]

No.4742 (2015年03月14日発行) P.62

篠田達明

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-03-14

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  • 物心がつくと父の手ほどきで丸山流の写実絵というものを習いました。茶碗や鉢植えを見た通りに描くのです。絵筆をもつのは性に合っていましたから夢中になって描きました。のちに父の友人の世話でオランダ商館出入り絵師の仕事にありつきました。甲比丹や蘭館医、書記たちはときどき転任しますし、長崎奉行所からもお役人や通詞などが出入りするので似顔絵や服装などを描いておく必要があったのです。

    上方や江戸では流派の伝統に沿わない絵師はたちどころに破門されてしまいますが、丸山流は自分の思うように描くことが許されていました。そんなわたしの写実絵を新任の蘭館医シーボルト先生が気に入ってくださり専用助手に雇われました。文政8(1825)年になると先生はジャワから呼び寄せたオランダ人画家のフィレネーフェさんに学ぶよう計らってくださり、人物や風景を洋画風に陰影をつける「シキルテレイ(絵画)」の極意を教えられました。

    それからは先生の求めに応じて長崎の文物や町並み、遊女の姿などを沢山描きました。先生から特に頼まれたのは和国の草木や文物の写生です。かれこれ5、600枚は描いたでしょうか。

    これまでのわたしは、自分のような町絵師は見世物小屋の看板描きと同じ身分だから人の目を愉しませる絵さえ描ければよいのだと考えていました。

    ところがシーボルト先生の身近にお仕えして、先生が学問に対して熱意と努力を傾ける姿をみているうちに、草木の写実絵を描くことは実は蘭学と同じ位の意味と重みがあるのだと気がつきました。わたしの絵が先生の研究に寄与しているとわかったからです。鳴滝塾の門人さんたちにもいろんな学を授けていただき、誇りをもって絵が描けるようになりました。

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