老中首座の水野忠邦は先年「三方領知替え」を発令した際、内達がなかったと多くの大名から抗議をうけた。つづいて天保14(1843)年6月1日に発令した「上知令」も大名と旗本に激しい非難を浴びせられた。「上知令」は江戸と大坂の周囲10里以内にある大名・旗本の領地を取り上げ、替わりに別の土地を与える土地交換命令だった。しかし不利益を蒙る大名と旗本は一斉に反対の声をあげた。
「われらは法令により将軍家お膝元から地方へ所払いになるも同然である」
「収入の悪い土地へ替地させられてなるものか」
彼らは結束して忠邦の強引なやり口に猛然と逆らった。閣内でも忠邦は孤立したため、天保14年閏9月7日、ついに「上知令」は撤回された。
同時に忠邦は老中職を罷免され、同月13日暮れ六つ(午後6時)までに西の丸下の老中屋敷を立ち退くよう命ぜられた。
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