医療の今後がさっぱり見えない今、私なりに現代までの医師の団体精神(エスプリ・ドゥ・コール)を回顧してみよう。
維新直後は、3000万人の人口に医師が1万人。識字率とともに世界最高だろう。紀州・華岡青洲の門弟など延べ3000人。父親並みの村医者ならよいという限定付きの免状から、3人しかいなかったという「奥許し」まであった。
明治以後は、近代国家の一国となって生き残ることが至上命令だった。法による政治、司法、内政、外交、軍備、産業、教育、鉄道、郵便などの制度を血税で必死に揃えた。医療もその一環だった。戦後の医療再建も、そのやり直しとして始まって、四つの島だけで平和裡にやれることを証明した。
半世紀前に医師となった私は、高度成長も福祉国家も近代化の延長線上だという理解で支持した。旧時代の遺物はいろいろ残っていたが、医学と医療制度が進歩してゆくことは固く信じていた。社会保障制度もようやく西欧に近づいた。今なおWHOは日本を総合得点1位に挙げる。
今、近代化と進歩とを誰も信じない。あろうことか市場原理主義が王道となった。元来は王権の過剰干渉を防ぐ思想だった。今後は放漫財政の尻拭いが半分、世界を覆う米国制度の全地球化への参加が半分だ。その中で西欧などは何とか福祉制度を守ろうとしている。
郵便などの制度は維新と戦後復興の二度、国民が血税で支払ったものである。国家を覆う郵便網は近代国家の条件なのだ。民業だから採算最優先だと胸を張らないでもらいたい。
大学病院も同じである。大学病院は単なる総合病院ではない。よき大学病院は長期間、医師の研修と研究と就職の相談に乗る総合力を持っていたのだ。今後、教授適任者は激減しないか。基礎医学ではすでに皆無に近くないか(米国のように外国人教授が多くなるかも)。
今や赤裸の求職者となった医師は、ただ一人で強大な資本力を持つ医療産業に対さなければならず、また職人としてすぐに実績を示すことが要求されるだろう。それは市場原理主義では当たり前かもしれないが、それでは一部の富裕者のための高額医療のためにしかなるまい。
ジャーナリズムも庶民の医療に尽くす「赤ひげ」をあるべき医師の姿と讃えるのは止めてもらいたい。あれを読み聞きするたびに、戦時中、孤島・硫黄島兵士の孤立無援の奮闘を激励するラジオ放送を思い出して不愉快になる。あれは政治の欠如を個人の犠牲で補えということである。