慶応4(1868)年9月8日に明治元年と改元され、江戸は東京と改称して世の中はめまぐるしく変わった。
新政府は翌年「医学は洋方をもって専一とする」と宣言してドイツ医学導入に踏み切った。
しかし、漢方の影が薄くなったわけではない。わしの患者には皇漢医療を信奉する侍従長の徳大寺實則卿をはじめ宮中の侍従や侍講、女官らがいた。わけても沢田友則侍講は心強い味方だった。
沢田侍講が脚気を患って脚マヒと水腫、大小便不利に陥ったとき、わしは「沈香隆気合豁胸湯」と「養生丹」を用いて完治させた。また、沢田夫人が長年悩んでいた眩暈症(めまい、ふらつき)を全治させて夫妻の絶大な信用を得た。
それからというもの、麹町の沢田邸へ往診するたびに宮中の内情や新政府の洋方医が目論む医制改革のあらましなどをじっくりと聞かせてもらった。
当時、医事行政の本営は文部省医務局にあり、総大将は医務局長の長與專齋だった。肥前大村藩出身の長與は大坂適塾の緒方洪庵に蘭方の教導をうけ、御一新後に欧米視察から帰朝して医療行政官として辣腕をふるった。謹厳実直な風貌だが、身を鎧で固めてスキを見せぬやり手と評された。
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