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相良知安(1)[連載小説「群星光芒」256]

No.4845 (2017年03月04日発行) P.70

篠田達明

登録日: 2017-03-05

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  • 京都九条邸の大広間にはきらびやかな装束を纏った高官たちが居並んでいた。

    ――今日こそ正念場だ。医制百年の大計のために躊躇ってはなるまい。

    医学取調べ御用掛の相良知安は丹田に力をこめてわが身にいいきかせた。
    明治2(1869)年2月23日の朝、元佐賀藩医の相良知安は正装に身を包み、九条邸に設置された太政官に出座した。
    新政府の最高機関である太政官は最初二条城に置かれたが、慶応4(1868)年閏4月に京都御所南の九条道孝の邸宅に移された。
    そしてこの日の朝、九条邸にて今後のわが国の医療方針に関する初の審議会がひらかれたのである。
    知安が通されたのは寝殿造りの対屋ではなく主屋の大広間だった。しばらく待つと高官たちがぞろぞろと現れ、上座に着いた。末席に座らされた知安は目をこらして居並ぶ高官たちを見やった。
    正面に座したのは議定の中山忠能と岩倉具視である。
    その左右に居流れて知学事(現代の文部科学大臣に相当)で元土佐藩主の山内容堂、参与の木戸孝允(桂小五郎)、同じく参与の大久保利通と後藤象二郎、そして元薩摩藩主の島津久光、元佐賀藩主の鍋島直正、元福井藩主の松平慶永、元宇和島藩主の伊達宗城、元日向高鍋藩主の秋月種樹といった錚々たる元大名が新政府の指導者として座を占めた。大広間は静まり返り咳払ひとつするのさえ憚られた。
    このたび医学取調べ御用のため学校権判事(文部省大学事務官)に任命された知安は担当の吏官から、
    「太政官は来る3月20日に東京へ移転する」と聞かされた。

    ――この気忙しいさなか、御歴々が揃って会議に出座されたのは、新政府が医療の将来を重視している証左である。

    知安はそう思い一段と気を引き締めた。

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