夕刻、にわか雨が降った。1人のやつれた医書生が江戸京橋水谷町の『芝蘭堂』の門前に立ち尽していた。そこは蘭方医杉田玄白の高弟大槻玄沢が開いた蘭学塾である。医書生はしばらくためらっていたが、思い切って門扉を叩いた。玄関番の門人が扉を開いておどろいた。
「おお、あなたは安岡玄真殿」
門人は全身びしょ濡れの玄真を玄関に招じ入れると、すぐさま師匠の許へ知らせに走った。書斎で書見をしていた玄沢は、玄真が来たと聞いて、
「中へ入れてやれ」と短く告げた。
ややあって門人は戻ってきた。「玄真殿は、やはり帰ると申しておりますが…」
玄沢は立ち上がって玄関まで容子を見にいった。そこに雨滴を垂らして打ち萎れた玄真が背を丸めてうつむいていた。
入門当初から玄真はかなりの変人だった。しかし頭脳は飛びぬけて優れ、体力もあり活気にあふれる若者だった。その彼が見るかげもなくやつれ、さえない表情でうなだれている。
「おまえらしくないな。とにかく風呂場へいって体を洗って来い」
「その前に、なにか食べ物を…」
玄真は伸び放題のひげをさすり小声で頼んだ。それをきいて玄沢は門人に目配せした。台所へ行った玄真は、茶漬けを3杯、滑稽なほどがつがつとかきこんだ。ついで風呂場で体を洗い、髭を剃ってから門人が用意した衣服に着替えた。一息ついたところで玄真は門人に付き添われて書斎へゆき、玄沢と向き合って座った。
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