わしはすぐさま閣老に伊東玄朴の不正を申訴した。学事盗用が露見した玄朴はたちまち将軍家奥医師の座からひきずりおろされ、非役の小普請医師に格下げされた。
しかし、玄朴はその後もしきりに権門に出入りして己れの失策を挽回しようとした。
老獪な彼は3代目頭取に昇格したわしの許にも毎日のように美肴を届けさせた。
時には珍しい文房具などを携えて自ら門を叩く。
「なにもかも新しいご時勢に変わりましたな。もはや老体が出しゃばるときではございませぬ。貴殿のような長崎直伝の新進がお働きくだされば手前どもも安心して隠居できます」などと臆面もなく見えすいた追従をふりまく。
その日、玄朴は万年筆という見たこともない利便品をもってきた。
「このたびメリケン国よりかような珍しい筆記具が手に入りましてな。貴殿にも一筆差し上げたいと持参いたしたのじゃ」
わしは万年筆なる品を手に取って試してみた。成程、筆先からインクなる液体が染み出てスラスラ運筆できる優れ物である。ポンペ師匠でさえ鵞鳥の羽をいちいち墨壺に浸して筆記されていたのだ。
「それがし老いたりとはいえ目も耳もまだ達者でござる。柳営のためになにかお役に立ちたい所存でして、まずは貴殿のご尽力を賜ろうと思いましてのう」
玄朴はまばらで長い眉毛を上下させ、いかにも哀れっぽい声をだした。
すでに十分な財産を蓄えた玄朴は老後の名誉と位階が欲しいのだ。
「永年の功労者を葬り去っては気の毒ですな」
医学所取締の竹内玄同もそう言うので、
「仕方がない、名誉職でも宛てがおう」
耄碌じいさんの根気と図々しさに根負けして医学所顧問の呼称を与えることにした。眼前にメリケン産の人参をぶらさげる術策にまんまとしてやられた。
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