翌春、陸軍の土岐頼徳軍医は、多くの麦飯反対派が参集する東京医学会総会の席上にて、台湾における麦飯兵食の実践による脚気改善の結果を発表して気を吐いた。
これを学会報で知った高木兼寛は、石黒忠悳を痛烈に批判する覇気にみちた陸軍軍医の存在を頼もしく思った。
ところが、土岐軍医はいつのまにか台湾総督府から左遷され、所属も居場所も不明になってしまった。
おなじく台湾総督府から更迭された森 林太郎軍医部長も明治32(1899)年6月から九州小倉第12師団の軍医部長に転任させられ、足掛け4年間、東京に戻らなかった。
海軍の脚気対策に力を注いだ兼寛は民間の医療活動も活発に行った。特に熱心に身を入れたのは看護婦の養成だった。
きっかけは明治10(1877)年頃より浮上してきた貧困者の医療問題である。国の洋方医育成はいまだ不十分で、貧困者への医療対策は著しく立ち遅れていた。
その頃兼寛は師匠の戸塚文海から紀州出身の医師松山棟庵を紹介された。棟庵は横浜で英医マッセや米医シモンズらに学んだあと、明治6(1873)年から7年間、東京三田の慶應義塾医学所の校長を務めた。
「国の施設や援助は無きに等しい。民間の我々が施療をおこなうしかない」
兼寛は棟庵とそう語り合い、華族たちから寄付を集めて芝公園内の天光院に施療の仮院を設立して、貧しい人びとの医療にいそしんだ。そして明治13(1880)年、英国留学から帰国した兼寛は、棟庵とともに施療に賛同する民間の医師を養成しようと東京京橋に成医会講習所(東京慈恵会医科大学の前身)を創設した。
また貧困者の医療は芝の仮院だけでは応じきれなくなったので明治17(1884)年4月に東京府病院の跡を借り受けて施療をもっぱらとする有志共立東京病院を開設した。
病院の総長には有栖川宮威仁親王を迎え、兼寛が院長を務めた。
病院には看護婦が欠かせない。そこで、設立当初より女性の看護人を集めたが、彼女らは看護がいかなるものかを心得ていなかった。そこで、在留米国人の宣教看護婦ミス・リードに頼んで週2日、彼女らに看護法を教えにきてもらった。
明治18(1885)年の春、伊藤博文夫人の梅子ら名流夫人が共立東京病院を見学にきた。夫人たちは生活困窮者を援助する慈善会を結成していて、その中に大山 巌陸軍卿の妻捨松が加わっていた。
捨松は元会津藩家老の娘で12歳のとき米国東部の女子大に留学する幸運に恵まれ、帰国すると20歳年長の大山 巌に「ぜひ吾輩の後妻に」と求められた。「仇敵に嫁すとは」と会津の親類から激しく反対されたが、これを押し切って結婚した。
その日、院内をひと回り見学したあと、大山夫人はほっそりした首筋を心持ち傾けて兼寛にたずねた。
「海外の病院には正帽・正服の看護婦がおりますのに、ここには見当たりませんね」兼寛は答えた。「正規の看護婦が欲しいのは山々ですが、養成所設立の資金がありません」 大山夫人は笑顔をうかべ、「では私どもで養成所の資金を集めましょう」と言い夫人たちと鹿鳴館で慈善パーティーを催した。そして明治18年7月末までに6500円の設立資金を集めて兼寛に寄付した。
その年の10月、共立東京病院付属の看護婦教育所が設立された。兼寛はミス・リードと2年間の看護教育を行う契約を結んだ。13人の見習生が採用され、翌19年1月に養成所が正式に発足した。
ミス・リードは厳格な教師で、生徒は最初の半年間を見習生とし、不適当とみなせば容赦なく退校させた。
明治20(1887)年、大分県出身の那須セイ(24歳)をはじめ5人の生徒が第1回生として卒業した。この年ミス・リードは帰国して兼寛が校長に就任し、東京慈恵医院看護婦教育所と名を改めた。
第2回生の卒業式から皇后の行啓がはじまり、大半の卒業生は上流家庭の看護に派遣された。給料は1日50銭、伝染病の場合は1円と定められた。
しかし兼寛校長がめざしたのは、貧しい人のための施療看護婦を養成することだった。そこで兼寛は、1回生の那須セイと2回生で愛媛県出身の拝志ヨシネ(19歳)をセント・トーマス病院看護婦学校に2年間留学させた。わが国最初の看護婦海外留学である。帰国後、2人は東京慈恵医院の看護指導者として活躍する。彼女らの提案で看護婦は白い帽子をかぶり、木綿の筒袖に襟元から(恵)と記した白い前掛けをかけることにした。婦長と看護婦にはスリッパを履かせ、生徒は全員足袋跣とした。
1年目の生徒は便器の交換や汚物の処理、ガーゼや包帯の洗濯を行わせ、2年目は検温のほか外科医のガーゼ交換介助と包帯巻き、消毒物、材料薬品の準備などを担当させた。
3年目になると手術介助やリネン洗い、器械の消毒などの業務を受け持たせた。
夜勤は生徒のみとし、異常があれば小部屋に泊まる婦長を起こして指示を仰がせた。月に1度、海軍の『甲板磨き』方式による病室清掃を施した。朝3時から婦長以下全員揃って床を石鹸で洗い、下拭き上拭きの後、仕上げは乾布で艶出しをした。
なお生徒には毎月看護手当を支給した。
兼寛が看護学校を軌道に乗せていた頃、地方の陸軍聯隊では米麦混合の兵食を実施する部隊がいくつか現れ、脚気の発症を抑えるようになった。
白米兵食を至上とする石黒忠悳陸軍軍医総監が退職してタガがゆるんだと感じたのか、九州小倉の第12師団に勤務する森 林太郎が明治34(1901)年8月に「脚気減少は果して麦を以て米に代えたるに因する乎」と題する論文を発表した。
これが『東京医事新誌』をはじめ医事関係の各雑誌に載ったので兼寛も目を通したが、中身は要するに陸軍の白米食至上主義を確認させるためのものだった。
翌年4月、森は第1師団軍医部長に就任して足掛け4年ぶりに東京へ戻ってきた。