その晩、緒方洪庵は奥まった目を妻の八重にむけて告げた。
「このたび江戸から届いた書状は西洋医学所からの依頼状である。依頼人は奥医師の伊東玄朴殿と林 洞海殿だが、文面は公儀の御下命に準じていることは間違いない」
そこで洪庵は深くため息をついた。
「しかし、わしが上様や和宮様に仕えて江戸城大奥にまかりでれば、難儀な事態に追い込まれるのは目にみえている。奥医師らしく体裁を調えるにも多額の出費を要しよう」
八重はうなずいたものの、そのあと小首を傾げていった。
「殿様は日頃天朝様への尊崇の念がお厚いではありませんか。皇女様の御為ならばすぐにも駆けつけずにいられぬのでは」
「そこがわしの苦しいところでな、上意とあらば何があろうとも断る訳にはゆくまい。この年になって浪速を去らねばならぬ事態がくるとは夢にも思わなかった」
洪庵は総髪をかきむしるようにして低く唸った。
岡山城下から北へ4里、備中国足守の里(現・岡山市北区足守)に洪庵の生家がある。父は足守藩士の佐伯瀬左衛門、母はキャウといい、3男の洪庵は文化7(1810)年7月14日に産声をあげた。騂之助と名付けられ、16歳で元服して田上惟彰と名乗った。翌年、父が足守藩の蔵屋敷留守居役を仰せつかると、父に伴われて大坂中之島(現・大阪市北区)に移住した。そこは諸藩の蔵屋敷が建ち並び、浪速商人の実力と威勢をしめす証の町だった。父は蔵屋敷にある藩の年貢米を商人たちに売り渡し、その利益で藩の財政を維持する重要な役目を担った。
残り1,683文字あります
会員登録頂くことで利用範囲が広がります。 » 会員登録する