「今から100年近く前、わが国に初めて人痘種痘をもたらしたのは浙江省杭州府の医師戴 曼公である。戴 曼公は経鼻種痘法といって痘瘡のかさぶたを粉末にして鼻孔に吹き込む方法を長崎に伝えた」
緒方洪庵は『適塾』の塾生に種痘の歴史について講義をつづけた。
「それから数十年経って筑前(福岡県)秋月藩医の緒方春朔殿が戴 曼公に倣って経鼻種痘法を試みた。春朔殿は長崎の吉雄耕牛先生の医塾に学び、清国の医書『医宗金鑑』の人痘種痘法に注目して日夜研究に没頭する。そして戴 曼公の経鼻種痘法に工夫を加えた鼻乾苗法という人痘種痘法を開発されたのだ。痘痂を粉末にして銀管に詰めこみ鼻腔内に入れるのは戴 曼公と同じだが、春朔殿は独自の銀管を用いるところが違っていた」
春朔が秋月藩医に召し抱えられた寛政元(1789)年冬、藩内に痘瘡が大流行した。春朔はこのときとばかり痘痂を粉末にして健常児の鼻腔に吹き込んだ。ところが粉末にむせたり、クシャミで吹き飛ばしたり、涙で粉末が流出するこどもが続出した。
そこで、木のヘラに痘痂の粉末を盛り、鼻腔に摺りつける方法に代えてみた。
すると上手い具合に植え付き、ほとんどの健常児に発痘をみた。これを知った藩医仲間がこぞって春朔に協力して接種したから、さしもの大流行もおさまった。
「春朔殿はこの人痘種痘法を秘伝とせず近隣の医師たちにも伝授した。寛政7(1795)年には『種痘必順辨』を著し、翌年『種痘緊轄』と『種痘証治録』を刊行された。春朔殿は文化7(1810)年に63歳で亡くなられたが、わが国独自の人痘種痘法を成功させた偉才である。わしは長崎に遊学したとき春朔殿が実施した種痘法の話をきかされたが、同姓の誼もあって一段と敬意を抱いておる」
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