現職と副会長の一騎打ちとなった日本医師会の会長選挙は、5選を目指す横倉義武氏(福岡県・75歳)を中川俊男氏(北海道・69歳)が17票差で破るという結果で終わった。唐澤会長時代から14年間、日医執行部の一員として政府与党と渡り合ってきた政策通の中川新会長は、新型コロナウイルス感染症への対応をはじめ課題が山積する医療の難局を乗り切ることができるか。
代議員全員がフェイスシールドを着用するなど万全の新型コロナ感染防止策をとって開かれた6月27日の日医定例代議員会。代議員会議長・副議長選に続き会長選が行われ、中川氏が初当選を果たした。
得票数は横倉氏174票に対し中川氏191票。副会長選、常任理事選は、常任理事候補の近藤太郎氏(東京都)が一時残る動きを見せたものの最終的に横倉陣営のみから出馬していた候補者全員が辞退したため、無投票となった。
当選後、壇上で挨拶した中川新会長は「日医史上最高の会長の1人」と横倉前会長の功績をたたえ、「定款に定めはないが、横倉先生を日医の名誉会長として認めていただけないか」と代議員に提案、承認を得た。
日医の会長交代は8年ぶり。過去の日医会長選は、政権与党(自民党)との関係で対峙・対決路線をとるか、対話・協調路線をとるかが争点となるケースが多く、2006年の会長選では協調路線の唐澤祥人氏が対峙路線の植松治雄会長(当時)との戦いを制し、2010年の会長選では、自民党政治を批判し民主党政権実現の立役者とされた原中勝征氏が当選。2012年の会長選では自民党との関係修復を目指す横倉氏が原中氏を破り、以来4期8年にわたり、安倍首相や麻生財務相とのパイプなど幅広い人脈を背景に“安定政権”を築いた。
中川氏の基本姿勢は、時に政権との距離を詰め、時に距離を置くという「是々非々」のスタンス。6月14日の出陣式で決意表明した中川氏は、常任理事、副会長として支えてきた3人の会長に触れ、「唐澤会長は優しい医師であり、その人柄に心酔した。原中会長には部下である執行部の役員を守りきるトップの器を見る思いがした。横倉会長には政治家や官僚へのきめ細かな気配りと交渉術の巧みさを教わった」と述べた。対峙路線と協調路線それぞれの長所・短所を執行部内でじっくり学んできた経験の厚みが中川氏の強みだ。
中川執行部が真っ先に取り組むべき課題は、新型コロナ感染症への対応だ。中川氏は選挙期間中、新型コロナ感染症対策として①専門組織の強化、②日本版CDC創設への働きかけ、③医療計画の5疾病5事業への「新興・再興感染症対策」の追加─などの政策を掲げた。
27日の代議員会終了後、3副会長とともに記者会見に臨んだ中川会長は「第2波、第3波が来ることは間違いない。それに向けて厚労省にいろいろな政策を提案したい。医療計画を5疾病6事業にする提案は既に非公式にしており、厚労省も具体的に検討を始めている」と述べた。
感染拡大に伴う医療機関の経営悪化については「非常に深刻な状況。受療行動も変わり、仮に(新型コロナ感染症が)収束したとしても医療のあり方が変わってしまうのではないか」と強い危機感を示し、「全国の病院・診療所の経営が立ち行かなくなることが決してないよう、あらゆる財源を使って手当てをすることを政府に求めていきたい」とした。
中川会長は選挙戦を振り返り「支持していただいた先生方からは、政府に対し勇敢にものを言う姿勢を評価する声が多く、自分の14年間は間違っていなかったと実感している」とコメント。「実は若手の医系技官など官僚の皆さんからも『頑張ってくれ』というたくさんのエールをいただいた」と述べた。
新型コロナ感染症への対応などで医師会と行政の緊密な連携が求められる中、中医協をはじめ多くの審議会・検討会に参加した経験があり、官僚の手の内をよく知る中川会長の誕生で日医と厚労省の連携はさらに強まるのか。医療行政に詳しい識者の間にはこんな見方もある。
「中川会長は、厚労省の政策に関しては熟知しており、審議会等を通じて内容にもコミットしてきたので、政策面での急な方針変更といった心配は少ない。ただ、医師需給、医師の働き方改革、専門医制度などについてはあまり政策を語ってきていないのは気になる。いずれも今後に大きな影響を残す重要問題であり、単純に善悪や財源問題で割り切ることができない問題だ。中川先生は『反対すべきものは反対する』という立場を鮮明にしているが、会長は最後はまとめなければならない孤独な立場。早速、年末の予算編成で医療は焦点になる。主張だけでなく、まとめという点でも強い指導力を出せるか、政府をはじめ関係者は皆固唾をのんで見守ることになるだろう」(元厚労省幹部)
正副会長全員が中医協委員経験者であり、全日本病院協会の会長である猪口雄二氏が副会長に就いたことも中川執行部の大きな特徴。猪口氏の執行部入りで日医の病院政策がどう変わるかも注目される。
中川会長は会見で、日医会長を志した時期について「いま考えると若気の至りかもしれないが、札幌市で病院を開業し札幌市医師会に入会して1年後ぐらい、1990年頃に『俺は日本医師会長になる』と言っていた」とし、「実際になってしまったと自分でも驚いている」と微笑んだ。
30年かけて夢を実現させた中川会長が、人脈の幅や「まとめ役」としての資質に対する周囲の懸念を払拭し、強いリーダーシップを発揮することを期待したい。
【関連記事】