「水野忠邦は常人よりはるかに根に持つ性癖がある。一旦狙われたらねちっこく追ってこよう。だが立ち向おうにも所詮こちらは蟷螂の斧じゃ。今更足掻いたとてどうにもならん。じたばたするだけ無駄骨じゃ」
父の佐藤藤佐はそういって泰然の申し出に取り合わなかった。 泰然の頭にあったのは江戸からの脱出だった。行く先は老中堀田正睦が治める下総国佐倉城下(千葉県佐倉市)である。
――藩主の正睦侯は忠邦侯の厳しい質素倹約令に批判の声をあげ、庄内藩の転封阻止にも大きな役割を果された。江戸城の茶坊主に「西洋堀田」とあだ名された蘭癖大名でもある。
くわえて泰然は佐倉藩家老の渡辺弥一兵衛と面識があった。弥一兵衛は文政の末頃に背中に大きな癰(カルブンケル)ができて苦しんだ。漢方医の治療ではかが行かず、泰然の医院に通うようになってめきめきとよくなり完治した。
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