江戸時代、「医者」になるには、どこかに弟子入りして修行する必要があった。当然、それですべてを習得できるわけではなく、医者になってからの経験と書物を用いた一生かけての研鑽が必要なことだったに違いない。
この時代、秋田の院内銀山でお抱え医者として活躍した門屋養安は日記を残している。鉱山労働者のじん肺(よろけ)を専門に診ていたほか、近在の町医者もかねていたらしい。たくさんの症例と書物のほか、他の町医者とも情報交換する。その毎日は、まさに生涯にわたる研鑽の姿だ。山本周五郎の小説や黒澤明の映画で有名な「赤ひげ」でも、商売や名誉といった現実的な利益よりも医者としての本分を貫く理想的なイメージが表現されている。
この4月から医師の働き方改革は施行されている。これまでの経緯では、医師の研鑽をどのように取り扱うかについて大きな関心を呼んだ。所定時間内に行う研鑽については労働時間にカウントされる。問題は、所定時間外に行われる研鑽だ。手術したり診療を行ったりしたあと夜に勉強、という状況はありふれたものだろう。法的には、管理監督者の指示があるかどうかが判断基準で、指示に準ずる黙示があると考えられる場合でも労働時間と認められる。新しい治療法や受け持ち患者の病気の症例報告の検索などを行うために、いちいち管理監督者からの指示があるだろうか。研鑽の本当の価値についての議論をふまえないと、労働時間か否かなどの水掛け論が終わらない。
一方、労働基準法に従えば、所定時間外の労働時間には割増賃金を支払う必要がある。休日労働で夜中までの場合、最大で6割増しの賃金となる。経営的には脅威となる等々、医療機関の医師の研鑽の取り扱いに関する懸念は当然だろう。
何かがおかしい。医師が研鑽すればするほど患者の利益になるはずなのに。定額で出来高の医療費では、血のにじむような研鑽でも、時間外手当を支払えば医療機関の持ち出しとなる。赤ひげ的な医師ならお金に文句をつけないだろう。医師の倫理観や使命感が頼みの綱だ。巷間意見のある通り、医師の研鑽をもっと適切に評価する手立てはないものか。
給料が十分高かった時代は、医師はおおらかだった。しかし、労働時間が正確に算定される今回の改革が始まった今、アバウトだった医師の給料への意識は労働時間により強くリンクするようになるだろう。医療機関側としてみれば、地域医療の維持のためにも倒産するわけにはいかないし、経営のためには法律の抜け穴を探してでも人件費を抑制しようとする。責めるわけではないが、医師との間に対立感情を生みやすくしている素地となりうる。
「赤ひげ」が絶滅したわけではないにせよ、医師の価値観も多様化しているのは誰もが認めるところだ。働き方改革の中の研鑽の扱いには否定的意見も多い。日本の医療の質を向上させて保つためにも、医師が良好な職場環境で健康で快く働くためにも、研鑽の問題をしっかり整理することは案外重要なことだと思う。
黒澤 一(東北大学環境・安全推進センター教授)[医師の働き方改革]