▼海外渡航歴のないデング熱患者の増加が、連日大きく報じられている。患者の多くが訪れたと証言している東京・代々木公園は大半が立入禁止となり、都内各地の公園では都の職員が殺虫剤を撒くなどして蚊の繁殖の抑え込みに力を注いでいる。
▼今回の事例がこれほど注目されるのは「70年ぶりの国内感染」という珍しさからだが、第二次大戦中の1942~44年に発生した「前回」とはどのような流行だったのか。デング熱研究に生涯を捧げた故堀田進氏の論考(日本熱帯医学会雑誌第28巻)によると、その流行は温帯地域で発生したものとしては、「世界稀に見る規模」で、特に1942年は激烈だったという。
▼その発端は、1942年7月、南方から長崎港に帰還した1隻の日本の軍用船だった。来航直後から、同市内でデング熱感染が爆発的に拡大。船で採取された蚊が感染源として特定されたが、流行は全国で発生し、同年の国内感染者は1万7554人に達した。
▼厚生省(当時)は翌年、デング熱予防のための通達を出している。防火水槽に石油や消石灰を撒くといった実効性の不明な対策も示されているが、蚊の産卵場所とボウフラ撲滅を第一に据え、除虫菊(殺虫剤)を撒布するなど対策の基本は現在も変わらない。
▼対症療法を基本とする治療もまた、70年前と変わっていない。当時南方に赴任していた軍医や医官にとって、デング熱はありふれた感染症だった。南洋パラオで診療していたある医官は、本誌1943年11月8日号で、発疹を一度見たことがあれば「素人でもデング熱であることは想像される」とし、自身の経験から感染の初期段階で単なる風邪と鑑別するコツとして「眼底の疼痛」の有無の確認を挙げている。治療法としては、解熱剤投与や補液など「対症療法を施す」しかないが、「余程下手な間違でもなければ患者を殺す事はない」とも記しており、厚生労働省がこのほど公表した『デング熱診療マニュアル』と見比べても、考え方に大きな違いのないことが分かる。
▼デング熱の輸入症例は年間200例ほど報告されているが、今回の国内感染によって、デング熱は一般の臨床現場にとっても「海の向こうの感染症」ではなくなった。予防ワクチンや治療薬の研究開発が国内外で活発化しており、予防と治療を巡る新展開の兆しも見える。その動きに期待しつつ、今は医療従事者と行政が蚊の発生抑制による予防と対症療法という「基本」に沿って国内感染を終息させ、来年以降の発生にも備えたい。