高木兼寛は青木忠橘軍医長を連れて脚気病調査委員会の責任者である真木長義海軍少将の執務室を訪れた。
「《筑波》の航路を《龍驤》と同一にしてこの間の兵食を洋食にして頂きたい」
そう頼んだあと、「この貴重な機会に兵員の脚気対策を講じなければ、海中に葬られた25人の海員が浮かばれません」と声を詰まらせた。
兼寛の必死の面持ちが通じたのであろう、しばらく目を閉じて黙考していた真木少将は顔をあげ、「よし判った、海軍卿の許可を得るがよい」と答えた。
つづいて川村純義海軍卿に申し入れた。
「脚気予防実験を行うため《筑波》の航路を南米チリまで伸ばして頂きたい」
だが、海軍卿は、「だめだ、大事な海軍兵学校の生徒に人体実験を課すことはならん」とにべもない。
兼寛はあきらめず、海軍卿の許にしつこく顔を出した。「海軍医務局の本務は蔓延する脚気病の実態を明らかにすることです。この計画には《筑波》の艦長も医務局と一体となって実施に賛同しています」
兼寛の粘っこい説得に海軍卿もついに折れ、《龍驤》と同一航路をとる《筑波》の遠洋航海訓練が実現した。
ニュージーランドから南米のチリまで往き、ハワイを通って日本に帰港する10カ月間の壮大な航海実験である。
万一多数の脚気患者が発生したときに備え、艦長、副艦長、青木軍医長、そして食料担当者らを交えて綿密な対応策を練った。パンと肉食は長期保存がむずかしいので航海中は麦飯を主食とし、渡航先の港では洋食を摂ることにした。全員の食事摂取状況も統一して記録するよう打ち合わせた。
そして明治17(1884)年2月3日の早暁、3本マストの大型練習艦《筑波》が品川を出航した。
以前より年1回ほど陸軍と海軍の軍医が集まり「陸海軍軍医 上長官協議会」と称する会合を開いていた。
上長官とは、陸軍の2等軍医正より上の階級をいい、海軍では軍医少監以上の者を指している。ただし協議会とは名ばかりで、簡単な実務報告のあと全員で一杯やるのが通例だった。
明治17年5月8日にも定例の会合が東京築地の精養軒で開かれた。おりしも《筑波》の遠洋航海実験の最中だったので、兼寛は会の冒頭でこの件を説明した。
「海軍では現在、脚気が食物中の窒素分不足によるとの仮説に基づき、麦飯または洋食供与による実験航海を行い、仮説の実証中であります」
これをきいて陸軍軍医本部の石黒忠悳次長が立ち上がり、「貴官は白米に窒素分が不足するので脚気がおこると考えるのか」と、いささか荒い口調で質した。石黒は陸軍軍医部を創設した功労者で軍医界の大立者である。兼寛は慎重な面持ちで答えた。
「脚気は高度の気温と湿度、労働と精神的抑圧によって罹患しやすいとされます。しかし、本官は真因が兵食不良にあると推定して海軍兵食を窒素1に対し炭素15を基準とする献立を実践しております」
石黒は軽く舌打ちして言った。
「では聞くが、西南戦争で政府軍が熊本城に籠城した際、兵食不足にもかかわらず兵員に脚気が出なかったのはなぜか」
兼寛は少し考えて口を開いた。
「政府軍の将軍と将官が兵隊とともに粟粥を口にして乏しい兵食を分け合い、全員の命を守ったからではないでしょうか」
「納得できぬな」
と石黒は上目遣いに兼寛を見やり、
「ならば、陸軍兵士の白米飯のほうが農民の麦、稗、粟混じりの粗末な食事よりずっと良いのに、陸軍で脚気が流行して農民に脚気が見られぬのはなぜか」
「その御質問には実施中の遠洋航海実験の結果によりお答えできるかと思います」
すると石黒はニヤリと嗤い、「海軍で実験をおやりになるのは大変結構なことだ。しかし、20万人を超える陸軍兵士においそれとやれる話ではあるまい」
いいえ、と異議を唱えようとする兼寛を石黒は手で制する仕草を見せ、「長年ひもじい思いをしてきた農民が軍隊に志願するのは、大釜で炊きあげたホカホカの白米飯を腹一杯食べたい一心からだ。そのような下情を察するのも統率者として大事な役目ではないか」
そこで面をやや脇にむけ、「新聞には海軍の水兵が兵食のパンを海に放り投げ、艦艇の周りにパン屑がプカプカ浮いていたと書いてあったぞ」と、皮肉な口調で言った。
「そもそも軍隊で兵食が定まったのは山縣有朋陸軍卿が陸軍給与規則を定めて玄米5合を一人扶持と統一したことに始まる。そして、陸軍は兵食の白米6合と副食代をそれぞれ金6銭として現在に至った。むろん陸軍にも洋食採用を試みるべしとの議論はあったが、吾輩は断固として拒否した。なぜなら、本邦は劫初より邦食をもって人口繁殖して今日に至っておるからだ」
石黒はそこで一寸間をおき、
「先年、米国大統領グラント将軍が来朝された際、近衛兵営の食事をご覧になり、その簡素なる品目に瞠目なされた。つづいて陸軍兵士の練兵状況を見分なされ、その労力と疲労度は米国陸軍兵士に比し些かも遜色なしと太鼓判を捺して帰られた。以来、吾輩は1日白米6合の陸軍兵食にいっそう自信を得た次第である」
そして最後に長い顎をさすりつつ、
「今や我が陸軍軍医本部は脚気中毒説あるいは感染説の検証をすすめており、いずれ貴官の白米原因説の真偽をたしかめる日も来よう」としめくくり、脚気の論議を打ち切った。
このあと開かれた宴席の酒に兼寛は少しも酔えず、帰路の夜風がうすら寒かった。
明治17年2月3日に品川を出港した練習艦《筑波》は2カ月後の4月中旬にニュージーランド北島のオークランドに到着した、と艦長の電報が海軍省に届いた。全員無事であり、これから2カ月かけてチリのバルパライソをめざす、とあった。