腹臥位療法は,1930年代にロッキング・ベッドによる呼吸補助中の体位として医学誌にその写真が掲載され,1970年代以後,急性呼吸窮迫症候群の体位治療として発展した
わが国では,1990年代から,寝たきり高齢者などにみられる廃用症候群に対して「腹臥位療法推進研究会」のメンバーを中心に用いられてきた
神経筋疾患や重症心身障害児・者に対する短時間腹臥位療法も試みられており,今後も,経験と適切な手法による臨床研究とエビデンスの蓄積が必要である
腹臥位療法は,集中治療施設(intensive care unit:ICU)での急性呼吸窮迫症候群(acute respiratory distress syndrome:ARDS)に対する体位治療として知られる1)2)。しかし,わが国では,寝たきりの高齢者の廃用症候群を予防するというユニークな視点から3),腹臥位療法推進研究会(1999~2016年)のメンバーを中心に用いられていたことはあまり知られていない4)。本稿では,その歴史,現状と課題について述べる。
1932年,イギリス人医師のEve FC(1871~1952年)が,ポリオ・ウイルス感染による急性上方性麻痺(Landry麻痺)患者に,児童遊具のシーソー(長い板の中央を支点にして両端に人が乗り,バランスを取りながら上下にゆすって遊ぶ)に似た呼吸補助法を試みた5)。Eveは,後にロッキング・ベッドと呼ばれる木製梯子上で,腹臥位にした患者の四肢体幹を中央でバランスを取って固定・緊縛し,人力で上下にゆすった。その結果,腹部臓器は重力によって体腔内を頭側・尾側と交互に移動し,横隔膜は頭高位では引き下げられ(吸気),頭低位では押し上げられ(呼気),患者のチアノーゼは消失したという。腹臥位によって,吐物や分泌物の体位ドレナージ(誤嚥・窒息の予防)と気道確保(舌根沈下の予防)が企図されたのである6)7)。ちなみに,1930年代のイギリスでは,腹臥位が,蘇生体位(腹臥位圧迫法)として海難救助などに用いられていたようである8)。
ロッキング・ベッドは,近代医学黎明期における非侵襲的人工呼吸法9),腹臥位療法の起源として貴重である10)。ロッキング・ベッドは,1950年代には患者を仰臥位で固定するようになり11),陽圧人工呼吸器が普及した1980年代以後,ほとんど使われなくなった12)。
1970年頃,ARDSに対する高濃度酸素下の人工呼吸が,肺を不可逆的に障害することが知られつつあった。1974年,カナダ人医師のBryan AC(1928~2005年)が,体位療法としての腹臥位の効用を示唆した13)。腹臥位療法が低酸素血症を改善するメカニズムは,換気・血流分布の適正化と体位ドレナージのうち「肺胞・気道ドレナージ」による肺胞の再開通である。
仰臥位療法での人工呼吸では,吸気に胸郭は腹側(つまり胸骨側)に引き上げられるため,換気量は腹側肺で多く,胸郭運動が制限された背側肺で少ない。一方,静水圧(重力)のため,肺胞の血流量は背側肺で多く,腹側肺で少ない。ここで,患者を腹臥位にすると,その静水圧のため血流量は腹側肺で多く,背側肺で少なくなる。その結果,腹臥位では,換気量と血流量が腹側肺でともに多く,背側肺でともに少なくなるため,ガス交換に関わる換気・血流の分布が適正になり,酸素化が改善する13)。
1976年,Piehlらは,多発外傷後のARDS患者に腹臥位療法を試み,吸入酸素濃度を下げ,人工呼吸から離脱させたことを報告した14)。その後,欧米のみならずわが国のICUでも,ARDSの人工呼吸管理の体位療法として,腹臥位療法が用いられるようになった2)15)。
1日に数時間以上行われた腹臥位療法は,障害された肺の保護に有効で,ARDS患者の生命予後を改善するとされているが1)16)17),すべてに有効ではないとする意見もある18)。また,マンパワーと設備が必要で,点滴,気管や胃管などのチューブトラブル,患者の不穏,ベッドからの転落などの事故や,褥瘡,血行障害,窒息,低血圧,徐脈,頻脈,不整脈などの合併症に配慮が必要であるため,ICUではこの体位療法が普及しているとは言い難い19)。図1に,欧米の一部で用いられている腹臥位療法装置(ROTOPRONEⓇ,Getinge Co.スウェーデン)を示した。
腹臥位療法では,重力により分泌物が体外に導出されるが10)20),貯留した分泌物の部位から,体位ドレナージのメカニズムには2つある。
1つは,口鼻腔や咽頭に貯留した唾液などの分泌物を排泄させる「口鼻腔・咽頭ドレナージ」で,導線が短いため即効性がある。この効果は,腹臥位下のロッキング・ベッドで,気道確保とともに用いられた5)。また,意識不明や全身麻酔後の患者に用いられる「昏睡体位」は,誤嚥と舌根沈下を予防するための半腹臥位であるという4)。
もう1つは,肺胞に貯留した分泌物を,末梢気道,細気管支,気管支,気管を介して排泄させる「肺胞・気道ドレナージ」で,導線が長いため即効性はない。特に,喀痰を自力で排出できない寝たきり高齢者や,進行した神経筋疾患患者は,炎症などにより分泌物が増加しており,また多くの肺胞が閉塞したARDS患者では,肺胞が再開通して酸素化が改善するのに時間がかかる。ARDSでは,酸素化を改善させるのに1日に20時間の腹臥位療法が必要との報告もある21)。
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