連載第1回(No.5043)では,2020年7月に報道され明るみにでた,京都のALS患者の女性への薬物投与事件に関して,新聞報道の情報をもとに論評した。今回は,2018年に公立福生病院(東京都福生市)で起きた治療中止事案に関して論評する。この事案は法律の解釈としても微妙な問題であり,法的アプローチが難しい。それは同様に,多くの医療人を悩ませる問題でもあるはずだ。
京都の事件と比較すると,公立福生病院の事案は,先述したように「グレーゾーン」「限界事例」の範疇に類型化しうる事案である。そのため,研究対象としてはきわめて微妙であり,興味深いものがある。医事刑法学の専門家の視点からは,こちらの問題のほうが「いよいよここまで来たか」という感がある。概要は以下の通りである1)~3)。
事の発端は,2019年3月の新聞報道であった。公立福生病院で2018年夏,腎臓病の女性患者(当時44歳)が自らの意思で人工透析治療を中止し,1週間後に死亡していたことが明らかになった。東京都はこの患者を含め,同病院で死亡した24人の患者への対応を調べ,診断記録などに不備があったとして改善指導を行った。しかし,病院側は透析中止も1つの選択肢と説明,意思決定のプロセスに問題はなかった,とした。
詳細を見ると,同病院で死亡した24人のうち,末期腎不全患者に対する透析非導入が19例,透析開始後に継続を終了したケースは5例であった。44歳の女性患者は5人のうちの1人で,2018年8月に死亡した。女性患者は別のクリニックで透析治療を受けていたが,シャントの機能が低下し,改善できるレベルではないと診断されていた。また,福生病院は長期留置型カテーテルによる透析以外の選択肢は難しい,と女性患者に告げていたとのことである。
死亡した女性患者が長期留置型カテーテルによる透析を病院側から提案されていたということから,かなり長期にわたって透析を受けていたと考えられる。しかし終局的に,病院側はカテーテル留置手術の同意を本人から得られず,女性患者も「シャントがだめになったら透析をやめる」との意思を,病院側に伝えていたという。
私が本件の人工透析治療中止の報道に触れて驚いたのは,行政の動きはあるものの,司法官憲が何ら動いていない点である。そして,まず想起したことは,先の東海大安楽死事件で横浜地方裁判所が示した「消極的安楽死」(治療の中止,尊厳死ともいう)の3つの正当化要件である。なぜなら,この3要件と本件の実状を比較し,整合性が取れていなければならないからだ。その要件とは,以下のごとくである。
①患者が治癒不可能な病気に冒され,回復の見込みがなく死が避けられない末期状態にあること。
②治療行為の中止を求める患者の意思表示が,治療行為の中止を行う時点で存在すること。ただし,その時点で患者の明確な意思表示が存在しないときには,リビング・ウイルなどの事前の意思表示や,家族の意思表示を通じた患者の意思の推定が許される。
③治療行為の中止の対象となる措置は,薬物投与,化学療法,人工透析,人工呼吸器,輸血,栄養・水分補給など,すべてが対象となってよい。
この3要件に目を通されて,お気づきであろうか。まず着眼すべきは,①の要件である。上述の事実の概要によれば,女性患者は病院側から長期留置型カテーテルによる透析を提案されており,当時,医師患者双方による会話も成立しており,死期が身近にせまっているとは言えないからである。しかし,病院側はカテーテル留置手術の同意を本人から得ることができなかった。ここに,終末期医療における微妙であいまいな「グレーゾーン」が存在すると言えよう。つまり,患者に死期がせまっていない状況で治療を中止すれば「消極的安楽死」(=尊厳死)の正当化要件を充足しないのだが,福生病院のケースは,この要件に照らし,果たして正当化されるのかという問題が存在するからだ。普通に当てはめて解釈すれば,腑に落ちない点がある。
ただ,医師ならびに医療の世界を尊重する立場に立てば,当該ケースの場合,女性患者からカテーテル留置手術の同意を得られていない点がきわめて重要である。なぜなら,いくら延命のためとはいえ,女性患者の同意を侵害して長期留置型カテーテルの留置手術を強制的に施行することはできず,医師の行動準則はどうあるべきかという問題が露呈するからである。この点,ドイツには,急性腸閉塞に罹患した大企業の経営者(患者)の興味深い事例があるので,ここに紹介しておく。本件は,患者が生命維持のために必要不可欠な手術を拒否したため,患者が同意した浣腸の中に医師が麻酔薬を混入し,強制手術に踏み切ったという事案である。結果として手術は成功,患者は健康を取り戻し,その苦痛は外科手術により除去された。ところが,患者は医師の専断的行為に激怒して,彼を告訴し,裁判所は医師を傷害罪で処罰したというのである6)。古い事例であるし,ドイツとわが国では専断的治療行為の違法性に対する考え方が異なるため,わが国においてはこのような事態にはならないであろうが,もし,仮に患者の延命を志向し強制手術に踏み切れば,民事上の専断的治療行為の問題となりうるであろう7)。
不思議なのは,医師が患者の同意を得られないが故に,その死に行く推移に,手をこまねいていても,刑事上の問題とはならない点であろう。ここには,「法は人に不可能を強制しない」という原理が存在しているのである。この段階では,司法の世界からの「法の判断」「法の要請」は形骸化し,無力になるのであろう8)~10)。その無力さと逡巡は,先の横浜地裁の判決文に広く目を通すと,その中にも実は現れているのだ。
東海大安楽死事件の横浜地裁判決は「積極的安楽死」の成否が争われた事案である。また,「積極的安楽死」に関する論文は多いが,一方で過去に公刊された論文でも,「消極的安楽死」への言及について取り上げ,深く考察するものは少ない。以下の裁判所の判断は,この「グレーゾーン」を考察する上で示唆に富むものであるため,該当部分をそのまま検討材料として提示する。なお,下線は筆者が付した。その部分に特に注視してほしい。
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