生物系学会の日本遺伝学会は昨年、遺伝学用語のdominant/recessiveの訳語を「優性・劣性」から「顕性・潜性」へ変更することを提唱した。これに対し、医学系の学会や臨床現場では戸惑いと混乱が生じている。医学界が使うべきは、顕性・潜性か、別の訳語か、あるいは従来通りか。日本医学会が12月11日に開いた公開シンポジウムの議論を紹介する。
優性・劣性は、遺伝における形質の現れやすさを指す用語で、遺伝子の優劣を示す意味はない。しかし、教育現場では、漢字に引きずられた誤解を生じやすいことが長年にわたり指摘されてきた。遺伝学会は10年以上の検討を経て、2017年9月に遺伝学用語集『遺伝単』の発行をもって顕性・潜性への変更を提案した。
新用語の教科書への反映は執筆者の判断に委ねられている状況だが、日本学術会議は高校生物の教科書に採用すべき重要用語として、優性・劣性と顕性・潜性を併記した。既に一部の教科書や国語辞典では顕性・潜性の併記または置換えが始まっている。
遺伝学会の桝屋啓志幹事はシンポジウムで、遺伝子検査やゲノム医療が身近になった現代において、「劣性=劣っている」という差別・偏見を助長しかねない誤解が生まれ続けることは「学問の領域を超えて社会の重大な問題だ」と述べ、変更の意義を訴えた。
日本医学会医学用語管理委員会の脊山洋右委員長は、顕性・潜性への改訂について医学会所属129分科会に実施したアンケート(回収率100%)の結果を紹介。それによると、賛否はほぼ拮抗しており、賛否のいずれにおいても「優性・劣性を使うことによる問題を感じない」との戸惑いの声や、新用語の妥当性、特に「潜性」に疑問を呈する意見がみられた。
分科会の1つ、日本人類遺伝学会は2012年の時点で、顕性・潜性への変更を希望するとの提言案を検討していた。同学会の櫻井晃洋理事は、遺伝学会の提案には「概ね賛成」としつつ、急な変更による医療・教育現場の混乱への懸念を表明。また、顕性と潜性は音が似ており、「遺伝カウンセリングの現場で、耳で聞いた時に弁別しにくい」との短所も挙げた。
日本医史学会の坂井建雄理事長は、「精神分裂病」が治療成績の向上や患者・医療者の切実な願いを反映して統合失調症に変わったのと比較して、顕性・潜性への変更は「必然性が乏しく、用語という社会的共有資産への敬意が不足している」と苦言を呈し、遺伝学会が“独走”して新用語を提案したことで「混乱が生じている」と問題視。遺伝学会に「当面の間は優性・劣性を使用することとし、顕性・潜性の使用はいったん停止すべきだ。日本医学会を中心に最良の用語を選定し、統一してはどうか」と呼び掛けた。これに対し、遺伝学会の桝屋氏は「遺伝学用語は生物系と医学系の共有資産。学会間の調整がもっと必要だ」と応じた。
シンポジウムでは、医学界が優性・劣性をどう扱うべきかに関する結論は見出されなかったものの、顕性・潜性の代案については複数の候補が挙がった。日本産科婦人科学会用語委員会の久具宏司副委員長は、潜性の代わりに「伏性」を提案。伏性は顕性と並んだ時に視覚的に違いを明確に識別でき、聴覚上も聞き分けやすいと主張した。別の演者からは、中国語と同じ「隠性」にするのが漢字の意味の上でも適切との見解も示された。
「陳述的な言葉を使う限り、どんな用語も差別に悪用できる」と釘を刺したのは、日本眼科学会用語委員会の柏井聡委員長。柏井氏は「第1様式・第2様式」のように数字を使った呼称を例示。日本医師会の羽鳥裕常任理事も“無機質な表現”には賛成したが、1人の臨床医の立場からは「優性・劣性で困ることはない」と話し、「そんなに議論を急がなくてもよいのでは」とも付け加えた。
このほか、ゲノム医療の当事者から「教育による正確な意味の普及こそ重要」との指摘がなされるなど、用語の改訂による差別解消に懐疑的な声も相次いだ。