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産業医の勧告権行使に関するシナリオトレーニング

No.5255 (2025年01月11日発行) P.36

五十嵐 侑 (五十嵐労働衛生コンサルティング合同会社・代表/産業医)

登録日: 2025-01-10

最終更新日: 2025-01-08

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  • 労働安全衛生法に定められている通り,産業医は事業者に対して勧告する権利を有しています。しかし,実際にどのようなときに事業者に対して勧告を行使するのかということについて,学ぶ機会は非常に少ないのが現状です。そこで,産業医として勧告するためのトレーニングとして,4つのシナリオを検討したいと思います。

    以降のシナリオを読んで,「問題の重大性」と「時間的切迫性」を考えて頂き,その上で「勧告の可能性」について検討して下さい。それぞれ,1.極めて低い-2.低い-3.やや低い-4.やや高い-5.高い-6.極めて高い,でお考え下さい。

    日本産業衛生学会の産業衛生専門医・指導医がどのように回答したかという調査結果と,筆者の考察を掲載していますので,それらと照らし合わせて,ご自身の考え方が,他の産業医たちと近いのか,乖離しているのかを考えて下さい。

    調査の要旨

    働き方改革関連法案に伴い労働安全衛生関係法令が改正され,産業医の勧告プロセスが定められた。産業医が事業者に勧告する場合は,意見や指導と区別しなければならなくなったが,両者の違いは明確に定義されていない。そこで,専門的な産業医が勧告を検討する条件を明らかにするため,産業医が勧告を検討する可能性のあるシナリオを作成し,個々のシナリオに対して勧告権を行使する可能性に関してアンケート調査を実施した。

    産業衛生指導医10名のインタビュー結果に基づき,勧告に関するシナリオを9つ作成した(本稿では4つを抜粋)。作成したシナリオに対して,産業衛生指導医17名に,「問題の重大性」と「時間的切迫性」の程度を6件法で尋ねた(アンケート調査1)。また,同じシナリオに対して,産業衛生専門医・指導医から,アンケート調査1の対象者等を除外した597名に対して,「勧告の可能性」に関して6件法で尋ねた(アンケート調査2)。

    アンケート調査1の回答率は94.1%(16名/17名)であり,アンケート調査2の回答率は19.6%(117名/597名)であった。77.2%がこれまで勧告経験はなかった。また,シナリオに対する「問題の重大性」「時間的切迫性」と「勧告の可能性」に関する程度は一定の関係性が認められた。しかし,「問題の重大性」が高くても,不可逆的な健康影響が生じない場合や,個別事例への対応は,より慎重に勧告を検討する産業医がいることが明らかとなった。

    シナリオ ❶

    ◆事業場の概要 
    スーパーマーケットのある店舗は従業員150人のうち15人が正社員である。店長はいわゆる雇われ店長であるため,人員増員や事業縮小などの決定権はまったくない。本社に統括産業医はいない。正社員は月60時間程度の残業が慢性的にあるが,「お客様第一」の精神が強く,誰も気にしていない。

    ◆ケース

    正社員の1人が先月潰瘍性大腸炎の再燃による入院となったことをきっかけに,店長から相談を受けた。
    「潰瘍性大腸炎の再燃は過労が原因だと私は思っています。本社の人事部長には,増員のための予算確保を2~3年前から何度もお願いしているのですが,いまだ検討中とのことです。その上,この店舗はあまり業績が良くなく,業務の効率化を進めて業績をあげるように厳しく言われました。今はなんとかみんな頑張っていますが,1人欠員となったことで負担が増えており,このままではいつか誰かが倒れてしまいます。人事部長にこの状況を説明しているのですが,なかなか理解してもらえません。先生からも何かしらの対応の必要性を伝えてもらえないでしょうか」。

    結果と解説

    概要

    月60時間程度の時間外労働が常態化しているスーパーマーケットにおいて,正社員の1人が(おそらく過労が原因で)難病を悪化させたことを受けて,店長から,本社の対応の必要性を打診されたというシナリオです。

    問題の重大性

    [労働者に対する健康影響のリスクの大きさ]としては,月60時間程度の慢性的な残業が発生していることによって,従業員が過労による心血管疾患や,メンタルヘルス不調を発症してしまうという健康影響があることは比較的わかりやすいでしょう。一方で,その発生可能性について悩まれた方も多いのではないかと思います。一般的には月80時間が過労死ラインとされますので,それを目安として月60時間では,そこまで発生可能性は高くなさそうだと考えられた方もいるかもしれません。[企業の不正性]としては,企業が法定労働時間を超えて労働を命じる場合に必要となる労働基準法第36条に基づく労使協定(いわゆる36協定)に関する言及はなく,遵守状況にやや疑いが残るものの,シナリオからは明らかな不正性はなさそうです。

    時間的切迫性

    [緊急性]としては,1人が欠員になったことで,これから業務負荷が一気に高まり,健康影響が出てしまう可能性があるため,ある程度はスピード感を持って対応したほうがいいと考えられた方も多かったのかもしれません。ただし,〈6. 極めて高い〉の回答が0であったことから,やや時間的猶予があると考えられた方が多かったのではないでしょうか。

    [対応性]としては,2~3年前から何度もお願いしているのに対応されていないという内容から,店長が同様に本社に掛け合っても対策は講じられない可能性が高いと考えられた方が多かったように思います。だからこそ,産業医が勧告権を行使することで,本社に動いてもらったほうがいいのではないかと考えられた方もいるかもしれません。

    勧告の可能性

    「問題の重大性」や「時間的切迫性」は〈4. やや高い〉と〈5. 高い〉が大多数であったにもかかわらず,「勧告の可能性」は,〈3. やや低い〉と〈2. 低い〉のほうが多くなっています。このシナリオでは,ある程度は勧告の必要性を感じつつも,まずはその前のプロセスを図ることが望ましいと考えられたのだと思われます。具体的には,今後の時間外労働のモニタリングを行うとともに,ほかに体調不良者が出ていないかどうかを定期的に確認すること,本社とのコミュニケーションを図ることなどを行いつつ,さらに状況が悪化した場合において,勧告するかどうかが検討されるのではないかと思われます。なお,本来であれば産業医として勧告を行う前に,経営層や本社側とコミュニケーションを図ることが望ましいのですが,地方拠点の嘱託産業医の場合には,限られた訪問時間や立場上,それは容易ではありません。さらに本シナリオのように, 担当する事業場のトップ(店長)からなんとかしてほしいと頼まれれば,本社とのコミュニケーションを図ることなく勧告するという状況も理解できます。

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