妊娠初期の悪心・嘔吐である「つわり」は,全妊婦の約3/4に認められ,このうち入院治療が必要な「妊娠悪阻」の頻度は,全妊婦の0.5~2.0%程度と考えられている。おおむね妊娠4~8週に始まり妊娠14~16週頃まで続く。Lacroixら(2000年)は,つわりの持続期間は平均35日間で,約50%は妊娠14週までに,約90%は妊娠22週までに改善が認められたと報告している。ありふれた病態ではあるものの,妊婦のQOLを損ねるだけでなく,脱水や電解質異常により重症化することがあるため,安易な対応は禁物である。妊娠悪阻に関連するより重篤な合併症としては,頻回の嘔吐によるマロリー・ワイス症候群や長期臥床や脱水による血栓塞栓症がある。妊婦はもともと高エストロゲン環境にあって血栓塞栓症のハイリスクであるため,肥満や喫煙者,血栓塞栓症の既往歴や家族歴のある場合は,特に注意を要する。
「産科婦人科用語集・用語解説集」によると,「つわり(emesis gravidarum)とは妊娠によっておこる消化器系の症状を主とした症候」で「悪心,嘔吐,食欲不振などを主徴」とするものであり,この程度が増悪し病的状態に至ったものは「妊娠悪阻(hyperemesis gravidarum)」と定められている。早朝空腹時に症状が目立つと言われ“morning sickness”の異名もあるが,筆者は「夕方以降に症状が強まる」との訴えもよく経験する。また,「何かを食べていないと気分が悪くなる」という場合が多いが,一部に「何も食べられない」という場合もある。稀に唾液過多を主訴とする症例にも遭遇し,これは妊娠中期以降まで遷延することが多い。
妊娠初期に悪心・嘔吐を認める場合には,ほとんどが妊娠悪阻と診断されるが,消化器系の器質的疾患が隠れている可能性を忘れてはならない。妊娠悪阻は妊娠9週以降に発症することは少ないし,腹痛や発熱を伴うことはほとんどないので,こうした場合には胃腸炎,胆嚢炎,膵炎などの鑑別を要する。治療が奏効しない場合や非典型的な経過を示す場合は,上部内視鏡検査なども考慮する。難治性の食欲不振を呈する妊婦で上部消化管の悪性腫瘍が診断された症例の報告もある。
つわりの症状を完全に解消することは期待できないため,不快感を最小限に抑えることを治療目標とする。日常生活における対策として,食事の1回量を減らして回数を増やし,満腹にならないように指導する。
「産婦人科診療ガイドライン―産科編2020」では妊娠悪阻の治療として,①心身の安静,②水分補給,③ビタミンB群や制吐薬の投与,を行うこととしている。脱水や頻回の嘔吐により電解質異常をきたす可能性があるため,症状に応じて補液や制吐薬の投与を行う。悪心が主な症状で水分摂取が可能な軽症例では,漢方薬を処方する。内服が困難で脱水が進んだ中等症例では,制吐薬入りの輸液を適宜行う。制吐薬としては,プリンペラン®(メトクロプラミド)が妊娠中の安全性が高く用いやすい一方で,ナウゼリン®(ドンペリドン)は医薬品添付文書では妊娠中の投与は禁忌とされているので,注意が必要である。5kg以上の体重減少を伴う重症例では,入院管理とし,経口摂取を控えて末梢静脈栄養を行う。
妊娠悪阻の管理においては,いくつかのビタミン類の補充に注意が必要である。1つはビタミンB1(チアミン)で,この欠乏によるWernicke脳症は精神錯乱,視覚異常,運動失調,眼振などの中枢神経障害を呈することが知られている。もう1つはビタミンB6(ピリドキシン)で,悪阻症状の改善に有効であるとのデータがあり,米国産婦人科学会(ACOG)の「Practice Bulletin」では第一選択薬のひとつに挙げられている。また,静脈栄養が長期に及ぶとビタミンK欠乏症を伴うことがあり,難治性の妊娠悪阻でビタミンK欠乏性の凝固障害を合併したという症例の報告がある。
唾液過多の症状は妊娠中期以降も続くことが多い。人参湯エキスが著効したとの報告もある。
妊娠悪阻の治療にあたっては,心理面のサポートも重要である。患者の訴えを共感的態度で傾聴し理解を示した上で,「いつか必ず解消するはず」と前向きな気持ちを保てるように努める。また,望まない妊娠である場合や家族内に葛藤がある場合などに,難治性の悪阻症状を呈することが経験される。症状が強く長期に及ぶ場合は,看護スタッフや心理士など他職種と連携して,心理社会面からの検討を行う。
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