日本プライマリ・ケア連合学会「予防医療・健康増進・産業保健委員会 産業保健チーム」の安藤です。今回から6回にわけて,プライマリ・ケア医(家庭医)が産業保健の視点を持つことの意義について,皆様にお伝えしていきたいと思います。
まずお伝えしたいのは,わが国における産業医の需給と,産業医に求められるスキルの変遷についてです。わが国において産業医は,今から約50年前の1972年「労働安全衛生法」(以下,安衛法)により,専門医学的立場で労働衛生を遂行する存在として定義されました。家庭医療の歴史としては,1977年にRochester大学のEngelがBPS(bio-psycho-social)モデルを発表 1)したころにあたります。
産業医が誕生して間もない1974年頃,全産業における労働災害による死亡者数は年間5000人を切ったものの,4000人を超えていました。しかし,それから約50年の時を経て,日本の産業構造は大きく変わり,全産業における労働災害による死亡者数は,2020年には802人と,3年連続で過去最少となっており(図1),また,産業医に求められる職務内容も大きく変わってきています。
1972年に定義された産業医は,1988年に改正された安衛法によって,衛生委員会の構成メンバーに加えられました。当時の産業医に求められた役割は,労働者の労働災害防止や公害対策,衛生面での助言が主体でした。1996年の安衛法改正時には,現在でも産業医の基本的な職務とされる健康診断事後措置などについて規定されるようになりました。その後,日本医師会による認定産業医として選任される医師には一定の要件が規定されるようになり,2016年の時点で約9万人の認定産業医が誕生しています。
しかしながら,2016年の日本医師会産業保健委員会答申によりますと,約9万人の認定産業医のうち,実働産業医数は約3万人と推計されています。なお,総務省の集計では,2020年の労働者数は約6676万人と言われています。認定産業医数は2019年には10万人を超えたと言われていますが,実働産業医数が極端に増加したということはなく,すべての労働者の健康を支えるためには実働産業医数は十分とは言えない状況です。
プライマリ・ケア医(家庭医)は,こうした社会のニーズに応えうる存在だと思われます。それは,単純に数の理論からではなく,産業保健と家庭医療は親和性が高いことに所以していると思います。
安衛法に労働者の精神的健康の保持増進について初めて規定されたのは2006年のことですが,それには,業務による心理的負荷が原因で精神障害を発症した,あるいは自殺したとして労災認定を受ける事例が年々増加していた,という背景があります。その後,2014年の安衛法改正ではストレスチェック制度が盛り込まれ,現代の産業医にはメンタルヘルス対策のスキルはほぼ必須となっています。
これらに加えて過重労働対策,化学物質による健康障害など,現代の職場の問題は多様化し,「産業医」は,「臨床医がアルバイト感覚でできる気楽な仕事」というものではなくなってきています。
一方,家庭医療に関しては,1977年にEngelが発表したBPSモデルを,カナダのWestern大学の家庭医療学講座の初代教授であるIan R. McWhinneyがさらに発展させ,現代の患者中心の医療の基盤となる研究を始めました。この研究は,Levensteinも加わって,1986年にdisease-illnessモデルとして発表されました2)。このような患者医師関係に関する研究は,その後もWestern大学の研究グループにより,さらに発展していきました。1995年にはHollnagelによって患者の強みに着目した理解が従来のモデルに加えられ3),現代の患者中心の医療が形づくられていきました。
プライマリ・ケア医(家庭医)はこのように,患者が医療機関を受診する際の「真の理由」を,また患者が抱えるすべての問題について検討し,広い視野と深みのある洞察によって全人的に理解します。もちろん,その視野の中には,仕事や職場環境,職場の人間関係に関する理解も含まれます。その上で,医療者自身もチームを形成しながら,患者やその家族と医療者の間に共通の価値観を見出し,思いやりや共感を持ってパートナーシップを構築しながら,バランスの取れた意思決定を行うようトレーニングを受けています。
このようなプライマリ・ケア医(家庭医)が得意とするスキルは,産業医に必要なスキルとも重なる部分があります。大企業のように産業保健スタッフが十分とは言えない中小企業や,産業医に対するアクセスが容易ではない小規模事業所や自営業者に対し,トレーニングを受けたプライマリ・ケア医(家庭医)が日常診療や健康診断などの予防医療において産業保健の視点を持って関わることで,これらの労働者の心身の健康の保持増進に寄与できるものと考えられます。
【文献】
1)Engel GL:Science. 1977;196(4286):129-36.
2)Levenstein J, et al:Fam Pract. 1986;3(1):24-30.
3)Hollnagel H, et al:Fam Pract. 1995;12(4):423-9.