胸痛があるのに各種心臓検査を行っても何も異常が指摘できない症例を経験することがある。これは,かつてcoronary syndrome-Xなどと言われていたが,近年になり米国から提唱された虚血性非閉塞性冠疾患(Ischemia and No Obstructive Coronary Artery disease;INOCA)という概念として確立された。
INOCAは動脈硬化性冠疾患のような器質的閉塞性冠疾患とは異なり,冠攣縮性狭心症や冠微小血管攣縮,微小血管狭心症のように器質的な狭窄病変を認めない冠疾患の総称である。この中にはかつて心臓神経症などと呼ばれ,精神科受診を勧められていた症例もあるかと思われる。最近の研究ではINOCAとエストロゲンの関係も指摘されているが,現状では決定的な治療薬がなく,治療に苦慮することも少なくない。そのような中,JCS/CVIT/JCCガイドライン(2023年JCS/CVIT/JCCガイドライン フォーカスアップデート版 冠攣縮性狭心症と冠微小循環障害の診断と治療)でも漢方薬(桂枝茯苓丸,四逆散,柴朴湯など)の有用性がある程度支持されており(推奨クラス:Ⅱb,エビデンスレベル:C),試す価値があると思われる。
上記方剤で桂枝茯苓丸には含まれていないが,四逆散と柴朴湯に共通する生薬は柴胡である。柴胡の薬能は解表・解熱・疏肝解鬱・升挙陽気である。「解表・解熱」はその読み通り解熱作用・抗炎症作用を指し,「疏肝解鬱」は肝の機能失調のために生じた抑うつあるいは興奮などの精神症状を改善すること,「升挙陽気」は低下した内臓平滑筋の緊張を高めることを意味する。代表的柴胡剤の1つに柴胡加竜骨牡蛎湯がある。
柴胡加竜骨牡蛎湯はその使用対象が「比較的体力があり,心悸亢進,不眠,いらだち等の精神症状があるもの」と記されているが,経験的に証(虚実)に関係なく試していただいて問題はない。漢方家の秋葉哲生先生も著書『漢方製剤 応用自在のユニット処方解説』の中で「あらゆる病態に精神的な領域が絡んでくるのが,現代の医療現場であるということができる。その意味で柴胡加竜骨牡蛎湯はもっと使われてよい。頼りになる処方と言える」とコメントされている。
本患者は勤務先に創設された新しい部署でストレスに曝されているものと推察した。また,一見奇妙に思える胸痛もその正体は本方剤の使用目標の“胸脇苦満”ではないかと考えた。ほかには,不整脈の見当たらない動悸の患者さんで,胸脇苦満や臍上悸を認める患者さんに柴胡加竜骨牡蛎湯が奏効する症例を多く経験しており,本当に頼りになる方剤であると実感している。