小豆畑病院には吃音外来がある。言語聴覚士が吃音のリハビリテーションを行い、私が診療を担当している。私が吃音を持つ子どもたちと接しはじめて10年になる。吃音のような悩みを持って育つ子どもたちは不幸なのか? 私は考えてきた。
『対談集 あなたが子どもだったころ』(中公文庫)を読んだ。臨床心理学者の河合隼雄さんが創造的な仕事をされた16人に、子ども時代について語ってもらう内容だ。
武満 徹さんとの対談後に河合さんが書いている。「子どものころに『幸せな思い出っていうものがあまりない』という言葉で、この対話は始まった。日本人で創造的な資質を持ったものは、よほどの環境にいない限り、子ども時代は苦労するのではないか」と。
幸せな子どものイメージは、親や周囲の人に庇護されて(庇護は愛されると同意語ではない)、不安なく自分の未来を夢見る少年・少女ということになるだろうか? だとすれば、この本に出てくる16人の中に1人も幸せな子どもはいない。全員が「子どもの悲しさ」を心に保持したまま成長した大人たちだった。
私は、この人たちが特別ではないと思う。すべての子どもは本来、悲しく切ない存在のはずだ。なぜなら、子どもは自分の力では生きられないからだ。この条件は自分の生存に関わることであり、子どもは本質的に不安で、悲しい存在なのである。
しかし、私が大人に接するときに、この人は「子どもの悲しさ」を心に保っていないなぁと感じることがある。そのとき、私はその人に心を許すことができない。好きになれないし信頼もできないのである。
河合さんは「子どものころの思い出を持ったまま大人になるのはすごく大変なことだ」と言っている。この16人に共通した特別な点は、「子どもの悲しさ」を捨てずに大切にしながら、決して負けずに大人になったという点だと思う。河合さんは鶴見俊輔さんを「ここ一番に全存在を懸ける人」と、武満 徹さんを「ほとんど不可能に挑戦する人」と評している。そして、その人にしかできない仕事を成し遂げた。
私の外来に通う子どもたち、悩みや悲しさを抱く彼らに、私は不思議な爽やかさを感じることがある。その爽やかさの光源は、子どもたちが自分の「悲しさ」を正面から受け止めて、未来のために立ち向かう姿に、私が未来を感じていることに起因していると気づいた。私は彼らを見ていると、子どもの頃の私に会っているような気がして、愛おしさがこみあげてくる。
小豆畑丈夫(青燈会小豆畑病院理事長・病院長)[吃音][河合隼雄][武満 徹]
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