朝、家事をしているときに聞いたラジオの話題なので出典が明らかではない。申し訳ない。
そのラジオ放送によると、「近年は世代間の価値観が近づいており、異なる世代同士でも似たような考え方になっている」というものだった。これには少し驚かされたが、言われてみればそうかもしれない。
私の父方の祖父は明治生まれで、昭和天皇には絶対的な敬意を抱いていた。私も皇室には親しみを持っているし、皇族の皆様も大好きだが、祖父のように神格化はしていない。しかし、明治時代に生まれて戦前、戦中を生き抜いたのだから、祖父がそのような価値観を抱くのはむしろ当然だと思った。このことについて祖父と議論することもなかった。
価値観が遠いからこそ、抱ける敬意というものもある。明治生まれの祖父と昭和生まれの私では、価値観が大きく異なるのはむしろ自然。だからお互いに相手の価値観を尊重しあって、仲良くできた。
こう考えると近年は、国内外で「分断の時代」と言われているのも頷ける。世代のみならず、男女の、民族の、宗教の、政治の、国籍の、文化の、貧富の、職業間の誹謗中傷、罵倒が日常的に行われる。これはネットなどの情報化によって、各人の価値観がむしろ近づいてきたからなのかもしれない。近づいているから、「相手も私と同じような価値観を抱くべきだ」という幻想を抱きがちになる。
昔であれば「男の考え」とか「女の考え」と平気で口にすることができた。今それをやればポリコレ的にアウトであろう。よって「男も女も同じ価値観、同じ考え方をすべきだ」という幻想が生じる。しかし、現実世界は幻想とは違う。そのギャップに苛立ち、互いが互いを中傷しあい、両者の分断が深まるという逆説が生じるわけだ。すべての分断は、このように深まっているように私には思える。「多様性の時代」と言いながら、誰もが(というのが主語デカなら「多くが」)「私と同じ考え以外は一切認めない」と主張する世界になってしまっている。悲しいことに、これでは誰も幸せになれない。
まずは、現実世界を正視せねばならない。差異は現存し、それを否定するのは現実から目を背けている。差異を認め、違いを認める。これこそが、これだけがわかりあうための前提条件だ。仮にわかりあえなかったとしても、少なくとも「仲良くなる」ための前提条件だ。
わかりあえなくても、仲良くなる。分断、分断でぶった切りまくる世界よりもずっとマシな世界ではなかろうか。
岩田健太郎(神戸大学医学研究科感染治療学分野教授)[価値観][分断の時代]
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