本誌No.5029(2020年9月12日発行)12-13頁「苦悩と癒し[1]─プライマリ・ケアと苦悩」の記事の中で、草場鉄周氏が患者の苦悩について、病気そのもの、あるいは病気が引き起こす症状のみならず、それによって失われた人としての自立性や完全性の喪失がもたらす苦しみがあると述べて、苦悩の種類には「生きがいの喪失、罹患の不条理さ、将来の不確実性」の3つがあるとの考えを示しています。そして、プライマリ・ケア医は「病人を人間として全人的、総合的にみること」「病人をその生活の中の人間としてみる、やさしい心を持つこと」が重要であるとして、家庭医療の父、I. R. McWhinneyの「医師の人生において中心となる仕事は、病気を理解することと人間を理解することです。病気になっている人を理解することなく病気を十分に理解することはできないので、この2つの仕事は分けることができません」という言葉を紹介されています。
医学医療は現在の科学的、生物的知見や技術を総動員して「病気そのもの、そして病気が引き起こす症状」の治療に取り組んでいます。細分化された専門医はその知識によって多くの患者に福音を与えています。専門医は科学的思考で病理・病態・治療法に詳しくなっていますが、物事を対象化して客観性を尊重するために、患者の人間性や人生を全人的、総合的にみることは弱いように思われます。
病気によって失われた人としての自立性や完全性の喪失がもたらす苦しみ、「生きがいの喪失、罹患の不条理さ、将来の不確実性」を、細分化された多くの診療科目の専門医は患者の私的事柄として、無関心ないし無視する傾向があります。それだと病気を治療する技術者に過ぎないということになるでしょう。多くの患者も病気さえ治療してくれればよいという思いだと思われます(日本の文化性の課題)。
プライマリ・ケア医は細分化ではなく、患者を全人的、総合的に診察できる力量のある医師を育てようという方向性です。そこでは患者の人間性、人生の全体に対する配慮が医師に求められるでしょう。宗教的視点までを医師に求めることは無理でしょうが、普遍性のある宗教を見分ける目を育てると同時に、宗教者を尊重して志を同じくして協働のためにチームを組むことが対人援助として求められています。
医師、教師など「師」の名称の付く専門性のある仕事は、人間やその人生を深く広く思索して配慮ができる天職であることが期待されているのではないでしょうか。
田畑正久(佐藤第二病院院長、龍谷大客員教授)[医療と仏教]
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