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森井大一

登録日:
2024-12-24
最終更新日:
2025-09-09
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  • 「リバタリアニズムの覚悟、その向こう側の『共同体』という希望」

    経済学者の長久良一氏によれば、「米国の(スパゲティ・ウェスタンを含む)西部劇と日本の時代劇の間には、決定的な違いがある」という。

    西部劇では、悪役から町を守る主人公は基本的に私人である。騎兵隊が登場することもあるが、脇役にすぎない。しかし、日本の時代劇は、大岡越前も、遠山の金さんも、暴れん坊将軍も、最後は公権力が悪人をバッタバッタと切り倒す。黒澤明監督の『七人の侍』は唯一の例外で、盗賊団の略奪行為に苦しんでいる農民たちに対して、役人は何もしてくれない。そこで農民らは、侍を傭兵として雇い自衛する。その意味で『七人の侍』は、時代劇と言うよりも西部劇だ。

    日本では昨今、「手取りを増やす」という政治スローガンがもてはやされているのはご承知の通りだ。前稿(No.5293)でも書いたように、「政府が俺の財布に手を突っ込むことは許せん!」という気持ちと、そのベースにある政府への懐疑は確かにわかる。そして、これも以前(No.5288)書いたが、本当のリバタリアンなら負担下げだけでなく、給付下げも一緒に言うはずである。そして、リバタリアンを自称する、あるいはリバタリアンを気取った言説を振りまく政治勢力が伸張してきた。筆者は、こういった政治言説が一定の支持を獲得しているという事実は認める。しかし、その主張者や支持者が本当のリバタリアンであるのか、については疑問を持っている。

    本連載でも、ノージックについてしつこく言及しているが、もう少しわかりやすく説明できないかと思っていたところ、冒頭の長久氏の西部劇の比喩を偶然知った。長久氏によれば、リバタリアニズムとは西部劇の精神のことである。西部劇に現れる、リバタリアニズムという思想の土着性については、機を改めて論じることにする。

    長久氏の比喩にはっとさせられるが、リバタリアニズムは、強い覚悟と強靭な精神がなければとることができないきわめて厳格な態度だ。本当のリバタリアニズムのもとでは、いざというときに、ドラえもんに縋って泣くのび太のような訳にはいかない。米国という国をつくった開拓者たちは、先住民から力づくで土地を奪い、自らの所有を主張する土地の境界に、自分の手で杭(stake)を打ち、武装して私有財産を守ってきた(「ステークホルダー」という米国製英語の原義は、このような状況を想定している)。西部劇とは、最後の最後まで自分たちだけで問題を解決・完結させる覚悟に裏打ちされた物語だ。最後は、公権力に問題解決をゆだねる日本の時代劇とは、まったくの別物である。

    日本のファッション・ネオリベやコスプレ・リバタリアン、あるいは別財源を伴わない負担下げを支持している国民に、その覚悟はあるのだろうか。

    しかし、である。西部劇が面白いのは、それが自生的な意味での「共同体」の萌芽を含んでいる点だ。前稿の繰り返しになるが、リバタリアニズムの先にこそ、共同体を望む可能性がある。これは、あくまで医療の社会化に拘りたい筆者にとっての希望でもある。その意味で、コスプレ・リバタリアンのコスプレ性を見きわめた上で、西部劇のガンマンが体現する本当のリバタリアニズムを理解する想像力を持たなければならない。

    森井大一(日本医師会総合政策研究機構主席研究員)[リバタリアン

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