中学時代、郷里に近い波板1)や吉浜の浜辺2)は、野山を遊び場とする少年たちにとって格好のキャンプ地であった。東日本大震災のあと、その波板の海が見える山の上に電話ボックスが置かれた。だれもが自由に使えるが、電話線が繋がっていない「風の電話」である。その電話からなら、会えなくなった人と話すことができるという。
災害が生じた直後、折り重なる瓦礫の隙間や津波に洗われた岩陰、広いうなばらで救いを待つ人々のもとに手を差し伸べることは疑いなく崇高である。しかし、偶然に難を逃れた人々の命も同じくかけがえがないのである。
歴史上には、救いを求めることも救いに向かうことも困難な大災害が繰り返し生じた事実があり、人々にはその都度それぞれの体験と様々な判断や行動があった。しかしそれらは、多くの人々にとっては遠い昔の出来事である。なぜなら時の流れがそこに生きる人々の構成そのものを変え続けるからである。僅か10年前の事でさえ、社会的な「記憶」として維持するのは容易ではない。そのため新たな災いが襲うまで、当事者が気づくことはない。パンデミックやクルーズ船とて同じことである。
悲惨さのみを語り継げば、情緒的には忘れがたくともそれはやがて脚色され変質する。悲惨さや感動の陰にある真の記憶が世代を超えることは容易ではなく、私自身は真に有用な記憶とするには事後よりも事前対処の記憶構築に力点を置くべきだと考えている。できるなら社会システムとしてルール化すべきとも思う。
津波が襲った日、救いを求める声を探すよりも、辛うじて生き延びた目の前の人々を感染症から守ると決めたことに、本当に意味があったのか。あの日、海に召された人々に同意を求めたいと常々思っているが、能登半島地震や東日本大震災の規模を超えるかもしれない大災害前夜の現時点で結論を求めるのは早いかも知れない。
感染制御は予防医学ととらえられている。しかし、その役割は単なる予防医学の範疇を超え、感染発生後の収束や被害規模の最小化を目的とする能動的な対処である。そのような考え方が災害時の避難施設における集団感染の制御チームという概念の根幹にある。すなわち我々は発災後とはいえ事前対処に目を向けて動き出したのであり、その真価は、災害の直接被害から逃げおおせた人々が、何事もなく急性期を脱して公衆衛生インフラが整った日常に戻るまでの支援をすることにある。
災害時の感染制御には、医療関連感染症の制御という近代社会のインフラとしての仕組みをフィールドに応用するという意義がある。したがって、災害時の感染制御チームは、「国際救助隊発進(!!)」的な目覚ましく勇ましい成果や、大衆にとって理解が容易なパフォーマンスの類とは別世界に生きる必要があると考えている。
多分に情緒的な物言いではあるが、その真の評価はいずれ、あの「風の電話」で確かめることになるだろう。(完)
【注】
1)岩手県大槌町にある、太平洋に面する美しい海岸
2)岩手県大船渡市にある、太平洋に開く湾と海岸。津波の影響から令和5年時点では、海水浴ができない状況という
櫻井 滋(東八幡平病院危機管理担当顧問、日本環境感染学会災害時感染制御検討委員会 副委員長)[エンデミック時の感染症対策]
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