65歳以上の高齢者の約12%が認知症、約16%が軽度認知障害であり、「誰もが認知症になりうる」時代がすぐそこまできている。
認知症ケアには深い歴史があるように思われているが、実は浅い。認知症の人が増え始めたのは、最近のことだからだ。認知症ケアはまだ黎明期であり、今後大きく変わっていく可能性が高い。未来から今の時代を振り返ると、「変なことやっていたんだな」と思われるかもしれない。私はわかりやすく、「現代の認知症ケアは馬車の時代みたいなものだ」と言っている。自動車が発明されたことで、馬も御者も消えてしまった。今の認知症ケアには当たり前のものが、近い未来にはおそらく消えてしまうことだろう。
日本はどうやって高齢化に適応していくのかという点で、世界中から注目されている。では、どんな認知症ケアによって高齢化に適応していくのだろうか。
第一に、認知症ケアの目的は、機能の維持から生活の質の維持に変わっていくと考える。プロダクティブ・エイジング(生産的な加齢)や、サクセスフル・エイジング(成功した加齢)といった言葉がある。歳をとってまで、「私は成功している」なんてマウントを取ってもしょうがない。私たちの研究室では、ミーニングフル・エイジング(意味のある加齢)という言葉を使っている。機能の維持はもちろんよいことだ。でも、絶対に譲れないのは、生きていてよかった、と思いながら生きることだ。
第二に、ケアする側とされる側の境界があいまいになっていくと考える。少し考えて頂きたいが、認知症の人はケアされるだけの存在だ、という世界は生きるに値するだろうか。ケアする人 vs. ケアされる人、正常な人 vs. 正常ではない人、強い人 vs. 弱い人、お客さん vs. 使用人……こういった分断はとても危険だ。なぜなら、このような分断は、虐待や、燃え尽き症候群につながるからだ。
これに対して、「現実離れしている。認知症の人は生活障害があり、実際にケアされているじゃないか」と思う方もいるだろう。専門家として、それは痛いほどわかる。だからこそ、少しでもケアする・されるの境界をあいまいにするように努力しないと、とても危険である。
一方向ではなく、ケアする側もされる側も生きる意味を感じることができるケアは可能だろうか?
私たちは、可能であると信じている。たとえば私たちの研究室では、農園や仏教寺院を用いた認知症ケアを研究している。田んぼでは、認知症の人が若いスタッフよりも上手に田植えをしたりする。農園でのんびりしているとき、ケアワーカーもリラックスすることができる。安全には気をつけつつも、ピクニックみたいな時間だ。また、仏教はもっと根源的で、「私たちはみんな弱者だ」と教える。ケアする vs. ケアされる、強い vs. 弱いもなく、みんな弱者なんだ、という胸のすくような明快さである。
AIやロボットもよいが、上記のようなケアを実現するためのデバイスであるべきだ。認知症の人に仕える奴隷ロボットをつくるという発想では、それこそ反乱がおきるかもしれない。
岡村 毅(東京都健康長寿医療センター研究所研究副部長)[精神科][認知症]
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