“心筋梗塞の死亡率は男性よりも女性のほうが2倍も高い。その理由は、女性と男性では心筋梗塞の兆候が異なっていることが、広く知られていないためである”
2006年に欧州心臓病学会が声明を出すなど、専門家の間では以前から共有されていたこの事実に光が当たりはじめたのは最近のことです。きっかけの1つは、2020年に翻訳版が出版された英国の活動家、キャロライン・クリアド=ペレスによる著作、『存在しない女たち 男性優位の世界にひそむ見せかけのファクトを暴く』でしょう。
この中で、クリアド=ペレスは、典型的とされてきた心筋梗塞の兆候が男性のものであるために、女性の死亡率が高い状態が続いてきたことを、「男性のデータを中心に構築された世界で生きていくのは、女性たちにとって命取りになりかねない」ことを示す様々な事例の1つとして紹介しました。紹介されたその他の事例としては、自動車事故での死亡率や心臓のバイパス手術の予後の悪さ、あるいは雪道での転倒頻度などがあります。この本は、車の設計や道路の整備計画あるいは手術後の医療のあり方が、男性の身体や生活状況を主たる対象としてきたことで、女性が身体的な不利益を被っていることをわかりやすく示し、読者に衝撃を与えました。女性の読者には「やっぱり!」と思った人も多かったかもしれません。
クリアド=ペレスの提起したような問題を学術の領域で問題としてきたのが、米国スタンフォード大学の科学史家、ロンダ・シービンガーです。シービンガーは、このような問題を今後の研究や開発において避けるための手法として「ジェンダード・イノベーション(GI)」を提唱しました。2024年10月に出版されたばかりの『ジェンダード・イノベーションの可能性』には、科学史の研究からこの手法の提唱へと至った経緯やその現代的な意味、応用事例等の解説が、シービンガーの講演録とともに掲載されています。
ただしGIは、女性の被る不利益だけに対応する手法ではありません。たとえば、「男らしさ」と「暴力性」をつなげて、Y染色体上に暴力性の遺伝因子を見出そうとするような誤解に基づく研究を防ぐことも、その仕事の1つです。技術や制度の設計段階で、人の身体や状況に対するあらゆる思い込みを排することで、多様な身体の生きやすい社会をつくっていくことができるのではないか。これが、私がGIに、今、感じている可能性です。
渡部麻衣子(自治医科大学医学部総合教育部門倫理学教室講師)[ジェンダード・イノベーション][存在しない女たち]
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